アップルマウスの充電と階段の手すり

  Posted on Nov 28, 2017 in 建築考察, プロダクトデザイン

171128-1

アップルマウスを充電するたびに階段の手すりについて考えます。

日本では階段に手すりが無いデザイン、もしくは片側に手すりを付け反対側には側壁などが無いデザインをよく見かけます。明らかに危険度が増すデザインが、なぜこれほどまでに浸透したのでしょうか。なぜ階段から手すりを無くすという発想に至ったのでしょうか。

ヨーロッパでは、ミケランジェロ設計のメディチ家図書館の階段やパリ・オペラ座の大階段に代表されるように、古くから階段は建築デザインにおける核として考えられ、華やかかつ荘厳なデザインが展開されてきました。
それは時代の思想すら反映するものでした。
機能においても、階段は唯一上下方向へと人間が移動できる手段で、非常に立体的でダイナミックな空間体験をもたらしました。

一方で、中世の日本では多層の建築物が城郭を除けばほとんどなく、階段まわりの意匠がそれほど重要視されませんでした。

171128-3

ミケランジェロ:メディチ家図書館(1559)

171128-4

シャルル・ガルニエ:パリ・オペラ座の大階段(1862-75)

 

産業革命後、近代建築が生まれ、建築形態は劇的な変化を見せます。その中でも、合理性、経済性、機能性、工業性を主軸としたいわゆるモダニズム建築が世界を席巻しました。四角い箱に象徴されるこの建築形態は、資本主義や民主主義が発展する中で、主役となった一般大衆が幸せに暮らすための新しい時代の新しい建築形態があるのではないか、という探求から生まれたものです。また、装飾で埋め尽くされた貴族階級建築に対する反発をエネルギーにもしていました。このモダニズム建築は、現在、私たちが一般的に目にする建築形態の原型です。

手すりに注目すると、当時のモダニズム建築を代表するコルビジェのサヴォア邸、ミースのトゥーゲンハット邸のいずれの階段にもしっかりと手すりがついていることがわかります。これは機能性を直接的に表現することを美としたモダニズムの思想では当然のことでした。

171128-5

ル・コルビュジエ:サヴォア邸(1931)

 

日本へは、ル・コルビュジエのもとへ修行に出た前川國男によって、この新しい建築思想と形態とが持ち込まれます。前川は1932年、弘前市に木村産業研究所(現:弘前こぎん研究所)を建てますが、第2次大戦の影響もありいわゆるモダニズム建築が全国へと普及したのは1950年以降でした。その中で、当時の建築家の階段デザインを見ると、村野藤吾や谷口吉郎のように、むしろ積極的に手すりをデザインに取り入れているものがほとんどのように感じます。(村野さんや谷口さんの建築家としての立ち位置を考えるのは今回は置いておきます。)ただ共通して言えることは、そもそも美意識を基準として、手すりを除くといったような発想自体全く無かったのではないかということです。

171128-8

前川國男:木村産業研究所(現:弘前こぎん研究所、1932)

171128-7

左)村野藤吾:輸出繊維会館の階段(1960) 右)谷口吉郎:石川県繊維会館(現:西町教育研修館、1952)

 

それではいつ「手すりが無い方が美しい。」というズレたデザインの価値観が生まれたのでしょうか。

これには実は現代アート思想のひとつであるミニマリズムの影響が少なからずあると僕は考えています。ミニマルアートは1960年代にアメリカで生まれ、ものごとの極限の均衡や本質に迫る手段としてミニマルな表現を用いました。ここで大切なのはミニマルであること自体がミニマルアート目的ではないということですが、ドナルド・ジャッドやリチャード・セラなどが代表的なアーティストです。(画像は検索してみてください。)アップルのプロダクトデザインも多かれ少なかれこのミニマリズムの影響を受けています。

戦後、高度経済成長期を経て、日本の建築デザインは全うな発展を遂げることのないまま、バブルの不幸な時代へと突入しました。そして建築デザインはなんでもありの状態へとあっという間に発散してしまいます。

その後、当然のごとくバブルは崩壊し、その反動で今までのデザインとは逆側に振り切る形で、一部の日本のデザイン表現がミニマルな方向へと向かったように思います。その拠り所としたのがミニマリズムだったのではないでしょうか。ただし、取り入れたのは見てくれの手法だけで、その思想までは及ばなかったように感じます。そうでなければ「要素が少ない方がすっきりとしていていいデザインだ。」という安易なデザイン感覚には陥らなかったはずです。そして、手すりが削ぎ落とされる対象となることもまた無かったはずです。

海外のデザインを見ると、例えばデビッド・チッパーフィールドやジョン・ポーソンのような、どちらかと言うとミニマルなデザインスタイルを持つ建築家が手すりを毛嫌いしているかというと、全くそういうことはありません。むしろ手すりが無くては階段デザイン自体が成立しないような美しい手すりのついた階段を設計します。これは建築表現の本質的な意味や価値、必要性や責任をしっかりとその根底に捉えているからだと思います。なぜならば手すりとは命を守るためにあるもので、デザイン云々や法規的なルールよりも上位の優先順位を持つものだからです。

171128-9

David Chipperfield Architects:HEC Paris MBA Building(2012)

 

もし手すりが無い方が良いデザインだと思うのであれば、その時点でデザインの技量も設計士としてのモラルも不足しているということを認識すべきです。かく言う僕も、日本に戻ってきて最初に手がけた両親の家のリノベーションでは側壁の無い階段をデザインし、当時の自分の未熟さを反省しています。手すりを付けないとは、結局は問題を無かったことにして問題解決から逃げているだけなのですが、これは戦後日本が建築デザインの持つべき倫理観を正しく育んでこなかったということに加え、階段デザインに対して骨肉を伴った伝統を持たない弱みが背景にあるように思います。

アップルマウスは、近いうちにワイヤレスで充電できるモデルになるはずです。そして今の充電方法の問題はこのまま無かったことになるでしょう。ただ、この問題解決をしなかったというツケがいつか確実に回ってくるように思います。

今は住宅設計の要として階段のデザインを考えるようにしています。

171128-2

R.H.邸(2016)