建築と批評
少し時間が経ってしまいましたが、建築逢紡の第四回を10月21日(土曜日)に開催しました。
「建築と批評」ということをテーマに、
① 建築と批評のこれまでの歴史
② 批評的に建築の見るとはどういうことか
③ 現代建築に対する批評的な視点がなぜ大切なのか
というお話を、具体例として西沢立衛氏設計の森山邸を取り上げながらお話させていただきました。この一風変わった集合住宅は、歴史的な文脈からも現代性を切り取るという意味においても、とても日本的な建築の奥深さを備えた重要な建築だと僕は考えています。(ちなみに西沢氏は「日本の建築家」という本の中で、日本に”まっとうな”建築批評家がいないことに対する危機感を明確に述べている建築家でもあります。この本については9月25日のブログに短い感想を書きました。)
批評とは多角的かつ立体的な思考の組み立てです。言葉にすると少し捉えにくいかもしれませんが、実際に求められるものは何か特殊な能力ではなく、少しの知識と一般常識の創造的な構築です。その際大切なのは、主観的なものの見方と客観的な見方を織り交ぜて、それぞれがそれぞれの立場からものごとの価値を判断する姿勢を持つことです。
歴史的建造物だけでなくいわゆる現代建築にも、一般的に考えられている経済性や利便性、ファッション性以外に、重要な判断軸が多々存在しています。しかし、残念ながら資本主義経済(マーケティング)の枠から外れた価値観は非常に軽く見られている、というのが日本の現状です。それはものごとを批評的な視点を持って判断し行動する力が欠落しているからです。そしてこれは実は建築というジャンルに限ったことでは無いと思います。
以下が前回のテーマを紹介するにあたって勉強会の前に書いた文章です。是非読んでみてください。
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建築逢紡 第四回「建築と批評」2017.10.21
建築と批評(つまりは言葉)というものは古来より密接に結びついて発展してきました。古代ローマの建築家・理論家であったウィトルウィウスが「建築について」という世界で最初の建築書を書いたのが紀元前一世紀頃。それ以来、建築が批評を刺激し、また批評が建築を刺激し、そこから多くの新しい建築論理や建築形態が生まれてきました。
テーマを「建築の批評」ではなく「建築と批評」とするのは、そこに一方通行ではない相互作用の関係があるからです。
海外では建築批評というジャンルが明確に存在し社会的な意義が確立されているのに対し、現在の日本の建築界では批評という概念が非常に希薄です。批評の土壌が無いということは、つまり、機能性や経済性以外に建築デザインを評価する軸を持つことができないということです。例えば、現在の住宅建築デザインの一般的な判断基準のわかりやすい例をあげると、「インスタ映え」と、「CasaBrutus」と、「マンションポエム」。少し極端かもしれませんが、概ねこのようなところにあるような気がします。お洒落の延長線上で建築デザインを捉え、いわゆるメデイアベースのファッショナブルな感覚が混ざりあったところに焦点をあてているように思います。でも、こういった視点は本質的・骨格的な説得力を持たないうえに3年も経てば皆時代遅れになってしまうようなものです。現に、少し前に良く話題に上っていた「ニューヨークロフトスタイル」のような言葉はもう聞かなくなりました。「北欧スタイル」も「アジアンテイスト」も同じだと思います。これは商業という経済性の理論の中で操作された価値判断軸による影響が大きいからです。
一方で、スター建築家と呼ばれる建築家が設計する近年の住宅は、どこかアクロバティックな造形ばかりが先行するようになりました。これもまた、批評を伴った評価軸が欠落しているために、自己完結した建築に対する興味の中でデザインが延々と展開されているからだと考えます。そして、ある種の根無し草のようなデザインが溢れると同時に、そのどれもがどことなく似てきているところにインターネットを介した瞬間的な情報伝播の恐ろしさを感じます。
あらゆる側面において建築批評不在の実情は日本の建築界にとって大きなマイナスです。
そして今の日本で批評性が希薄なのは建築というジャンルに限ったことではないと思います。美術や政治やITの世界でも、同じようなことが起こっているのではないでしょうか。
今回は、批評的な視点を持って現代の建築を見る方法を一緒に考えていけたらと思います。今までと同じように、何か特殊な知識が必要とされる難しい話をするつもりはありません。当たり前の事実を紡ぎ合わせながら、新鮮な建築の見方に辿り着くことができればと思っています。
建築関係の方もそうでない方も、何かを持って帰っていただければ幸いです。
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