遊び

  Posted on Mar 21, 2024 in 建築考察, 日々について

もうすぐアニメ葬送のフリーレンが終わってしまいます。ロス必至です。切実です。とは言いつつ、昨年はガンダムがあり、SLAM DUNKがあり、今年はフリーレンがあり、素晴らしいアニメが多くて幸せです。建築家というのは何かを堂々と偏愛することを許される職業だと勝手に思っています。

フリーレンの物語のあらすじは既に様々なメディアで紹介されていますし、ネタバレもしたくないので、こちらの予告動画に任せるとして。半世紀近く生きてくると、確かに人生には、その後の生き方が変わるような幸運な出会いがあると、実感を伴って言うことができるようになります。

和泉武雄さんは僕の大学時代のラグビー部の臨時コーチでした。フランカーとして早稲田大学で日本一を成し遂げ、引退後は母校の指導だけでなく東海大学の監督も務められました。お住まいは愛媛県松山市。本業は造園家。山中湖や菅平での合宿、大切な試合の前にはハイエースに乗って愛媛から我々のグラウンドまで駆けつけてくれました。当時、東大ラグビー部のヘッドコーチであった、同じく早稲田OBの水上勉さん(元帝京大学監督)とのご縁でした。

和泉さんを思う度に頭に浮かぶ言葉は愛情です。この人には全幅の信頼を寄せてもかまわないと本能的に感じてしまう、そんな方でした。

思い出はたくさんあります。よく全体練習後にサイドディフェンスのコース取りを教えてもらいました。和泉さんがアタックのスタンドオフの位置に立ち、僕らがポイントサイドのディフェンスに立つ。そこから、お互い将棋を指すように、一歩ずつ交互に前に出ます。すると、コマ送り状態にもかかわらず、あっけなく抜かれ、体がすれ違います。始めはどこか虚をつかれたような不思議な感覚でしたが、次第にこれが非常に重要な体感なのだと気づきます。ディテールの粗をどうやっても身体能力で補えない僕らにとっては、出だし3歩の足運びで勝負が決まると理解できたのですから。

練習を繰り返し、ようやく理想的なディフェンスコースに入れるようになると、「ほうよ!」と、小学生の相手をするように声をかけてくれました。そして、僕らも子供に戻って褒められた自分を誇らしく思えるのです。

もちろん、とても厳しい方でもありました。大学5年目の秋、対抗戦の最終戦の相手は青山学院大学。(そう、4年目ではなく5年目です。)東大は試合時間残り数分のところで逆転され、負けます。大学選手権出場を目指していたチームは、結局全敗でリーグを終えました。試合後には涙している仲間もいましたが、グラウンド脇で和泉さんに言われた言葉を今も忘れません。

「お前ら、泣くような試合してないぞ。」

振り返れば、その6年前。高校3年、全国大会へ向けた秋の東京都予選トーナメント。(これで僕の一浪一留がバレてしまいましたが。)都立国立高校はベスト4をかけ保善高校に挑み、負けました。この時も監督の渡部さんに、

「お前ら最低だ。」

と、ひどく怒られました。

人生の序盤で、若者の可能性を、伸びしろを、心から信じてくれた本物の大人たちに出会えたこと。これは間違いなく僕の財産です。

ちなみに高校、大学を通して、自分が出場した試合で格上と呼ばれるチームに勝つことができたのは、大学4年の夏合宿での山梨学院大学戦、1試合のみです。毎日毎日必死に練習して、泥にまみれて、数百の試合に出場して、たった1試合。

でも1試合はひっくり返すことができたんですね。

 

ここからは建築の話です。

部を引退した春、和泉さんに招かれ同期の何人かと松山に向かいました。日陰に入るとまだ肌寒い、ちょうど今ほどの季節だったと記憶しています。昼過ぎにご自宅に到着すると、目の前には松山東高校のグラウンドがあり、そこは国立高校と全く同じ土の色をしていました。その日は売り物の盆栽を見せてもらい、道後温泉に行き、夜は小料理屋さんでご馳走になりました。そして次の日、

「建築を志すならこれを見ておけ。」

と、あのハイエースで古い町並みが残る内子町まで連れていってくれました。しばらくの散策の後、見学に訪れた古民家の床の間を指して和泉さんが問います。

「岩田、なぜこれが良いかわかるか?」

答えに窮していると、一言。

「遊びがあるからじゃよ。」

以来、建築における遊びというテーマが、常に僕の頭の片隅にあります。遊びとは様々な解釈を包み込む本当にふくよかな言葉です。例えば、古語の世界で遊びは荒びであると知るのは30代に入ってからのことでした。いつの間にかさらに10年以上の時が流れましたが、今もなお考え続けています。

また、これは今だから言えるのですが。

言葉とはその内容よりも、いつ誰にその言葉をかけられたのかという方に、実は幸運のウェイトが存在しているのではないかと思うことがあります。極論すれば、あの時、

「怒りがあるからじゃよ。」

と、和泉さんがおっしゃっていたのなら、僕は建築における怒りについて考え続け、きっと別の形で今の設計に還元していたに違いない。しかも、必ず良い方向に。

昨年末、和泉さんが亡くなったと同期のLINEグループに連絡が入りました。ご一緒させていただいた時間の全てを足し合わせても、おそらく3ヶ月にも満たないと思います。それだけなのに、一生ものの思い出と教えをいただきました。きっと和泉さんの人生に触れたすべての方が同じように感じているのだと思います。漠然といつかまたお会いできると思っていました。寂しいです。

 

一昨年、半期だけですが、東京都立大学で空間デザインの授業を受け持ちました。その時の学生がこの春卒業とのことで、先日、東京都美術館で開催されていた卒業制作展にお声がけいただきました。そして、ひとつひとつの作品を本人たちから説明してもらう機会を得ました。

山場を乗り切り、皆嬉しそうに晴れやかな表情をしていたのはもちろん印象的だったのですが、程度の差はあれど、それぞれの言葉に、目指す理想に少し届かなかったもどかしさのようなものも見え隠れしていて、とても大切な経験をしたのだと感じました。

上手くいったことと、いかなかったこととは、時間とともに等しく意義を持つものに変化していくと僕は思います。これからもあの日の両方の気持ちを忘れずにいてほしいです。彼ら、彼女らとの出会いも僕にとってはまた幸運な出来事でした。

改めて、ご卒業、ご進学おめでとうございます。未来が楽しみですね。