トイレのあるところ

  Posted on Oct 25, 2018 in 建築考察
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吉村順三 自邸(1957年、「吉村順三 作品集 1941-1978」より)

前回の投稿では「トイレの配置とプライバシーの確保の方法」について考えてみましたが、戸建住宅でよく見かける間取りに「玄関の横にトイレがある」というものがあります。中には「玄関から直接トイレに入る」形式の間取りも見受けられます。

しかしながら、玄関とは言うなれば家の顔です。その住宅内で最も表向きの空間と、逆にトイレという高いプライバシー性を求められる空間が、ひとつの標準的なセットとなっているというのは、改めて考えてみると、なかなか不思議な状況です。

 

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汚穢舟(おわいぶね)下肥施肥の様子(江戸川区 1950年頃「東京エコシティ」より)

いきなりですが、日本では鎌倉時代から戦後に至るまで、人間が排泄した屎尿(しにょう)を農作物の肥料として利用してきました。そのため農家は農業に必要な屎尿を、育てた野菜と交換したり、また、お金を払い手に入れてきました。

当たり前すぎて逆に見落としがちですが、この屎尿の取扱いが建物内でのトイレの配置に大きく影響します。そしてトイレの配置とその他の部屋の配置との間には密接な関係があります。そこで今回は、屎尿をとりまく歴史的な経緯を簡単に振り返りながら、玄関とトイレの関係について考えてみたいと思います。

 

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平安京復元模型(Wikipediaより)

645年の大化の改新をもって日本の国家体制が確立されると、中国長安をモデルとした首都の建設と遷都が繰り返されます。中でも奈良の平城京(710年遷都)、京都の平安京(794年遷都)が有名ですが、この長安に習った都市計画は条坊制と呼ばれ、儒教的な考えをもとに「天子南面」、つまり、天皇が北極星を背後にかかえて街、そして、その先に続く国を統治していくことを象徴的に表現したものでした。

中世に入ると国は貴族の時代から武士の時代へと移行します。すると条坊制とは異なり、より現代的な都市計画に近い視点で、街の区画が整備されるようになります。これを町割(まちわり)と呼びます。この町割の中を、さらに個々の敷地へと分割したのが屋敷割(やしきわり)です。

江戸の街では、碁盤の目状の町割の中心部に会所地(かいしょち)と呼ばれる空き地が設けられ、この中で町人たちは、井戸、厠、ゴミ溜めを共用していました。そして時代が下るにつれ、この空き地にも家や道路が作られるようになり、18世紀に入ると江戸の人口は100万人にまで増加したと言われています。

共用の厠から回収された屎尿は、江戸の運河網を利用し運搬され、各地の農民と取引きされました。屎尿の回収には直接農家があたる場合と、幕府から認められた特別な権利を持った者が行う場合の両方があったようです。江戸城内の屎尿は、戦国大名葛西氏の末裔であった葛西権四郎がその回収の権利を与えられていたため、屎尿を運搬する舟を後に「葛西舟(かさいぶね)」と呼ぶようになりました。

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左)江戸初期の町割りの様子、黒塗りが会所地(「江戸・東京の下水道のはなし」より)
右)長屋の裏では共同で稲荷なども祀った(「模型でみる江戸・東京の世界」より)

 

明治時代になると、江戸時代の階級構成が解体され、庶民が自由に自分の好むスタイルの家を持つことができるようになります。流行や国の政策とともに洋風の住宅も姿を現しますが、多くの庶民が選んだのは、江戸時代の武家屋敷をコンパクトにまとめた住宅スタイルでした。これは、いわゆる門構え、玄関、座敷、床の間などを備えた住宅を指します。そのため、現在に至る日本の住宅の間取りの変化は、この武家屋敷を起源とした間取りに、洋風の要素が混ざっていく過程であったと言い換えることもできます。

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左)平屋 延床18坪 右)2階建て 延床約32坪(「和洋住宅間取実例図集」より)

明治期の一般的な住宅の間取りを見てみます。これは明治40年(1907年)に出版された和洋住宅間取実例図集(越本長三郎 著、伊東忠太 校閲)からの図面です。左は延床18坪の平屋、右は延床約32坪の2階建ての間取りとなります。厠の位置に注目すると、それぞれ渡り廊下を伸ばした先の庭の中に置かれていることがわかります。この図面集には合計33種類の明治期の和風住宅の間取り例が掲載されていますが、そこには上の図のパターンの他にも、前庭のはずれや、裏庭(バックヤード)に面して厠が配置されている間取りも数例もあります。ただし、すべての間取りに共通して言えることは、屎尿の臭気や衛生問題への対策として、厠をできる限り生活空間から離した、風通しの良い場所に配置していたということです。居住環境を考えれば、これは必然の判断であったと思います。

また当時、自家製の堆肥(という表現が正しいかはわかりませんが…)を、自宅の庭で利用することも珍しくなかったようです。屎尿を回収し利用する作業動線を考えても、厠が庭とセットであったというのは、ごく自然な成り行きで構成された間取りだったのではないでしょうか。

この時代の厠の配置においてもう一点注目すべきは「客間(座敷)」の位置です。客間は客をもてなす空間であり、一家の主人の部屋でもありました。そして、この客間に対し、客や主人が不自由なく用を足せる場所に必ず厠が配置されていました。下の図は、明治20年頃に建てられた、森鴎外・夏目漱石が住んだ借家の間取りですが、客人や主人が利用する厠と、家族や下女が利用する厠が明確に分けられている典型的な例です。おそらく客間の奥の厠は使用頻度も低く、そのため、臭いもそれほど強くは無かったのではないかと思います。

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森鴎外・夏目漱石が住んだ借家(「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI図録」より)

漱石はこの借家で「吾輩は猫である」を明治38年から39年(1905-06年)にかけて執筆しましたが、玄関から直接書斎へと通じる幅の狭い引き違い戸は人用ではなく、猫のくぐり戸です。もともとは文京区の千駄木近くにありましたが、現在この建物は愛知の博物館明治村に移築保存されています。

全くの余談ですが、僕は高校生のころ夏目漱石の小説が好きで部活帰りの電車でよく読んでいました。中でも特に「吾輩は猫である」がお気に入りでした。その後、浪人生活を経て大学へ進み、ある日、学校近くを散歩していると、夏目漱石旧居跡の石碑が突然目に入りました。そこには石碑以外に漱石の足跡らしきものは何も残っていませんでしたが「そうか。ここだったのかぁ。」と非常に感慨深いものがあったことを今でも覚えています。そして大人になり愛知の明治村を訪れた際、この旧居を見学できたことの方が、同様に移築保存されているフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルを見学できたことよりもずっと嬉しかったことは、職業柄もうあまり大きな声では言えなくなってしまいました。現在、事務所を構えている根津の界隈も多くの漱石の小説の舞台であり、実はそのことが僕の密かな喜びでもあります。野良猫も多くいますし。僕自身は犬派ですが。

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左)森鴎外・夏目漱石が住んだ借家の外観 右)猫のくぐり戸(「博物館明治村ガイドブック」より)

さて、江戸時代の封建社会の名残りから、客間は家の中で最も格式が高い部屋とされ、住宅内で一番条件の良い南側に設けられるのが常でした。一般的な大きさの住宅の場合、通常、床の間を備えた部屋が客間です。一方、家族の部屋である茶の間(居間)は北側の決して日当たりが良いとは言えない場所に置かれていました。上の間取りを見ても、茶の間は年間を通してほとんど日が当たらない場所にあることがわかります。

しかしながら、大正、昭和へと時代が下るにつれ、家父長を絶対的存在としてきた家族観や家族内の人間関係も徐々に変化していきます。それに伴い、座敷と茶の間が入れ替わり、やがて南側に茶の間が配置されるようになります。これは接客中心の間取り構成から、家族中心の間取り構成への変化を意味していました。

大正時代に入ると都市の過密化が進み、都市での屎尿排出量が農地で利用できる量を超えてしまいます。また同じ頃、安価な化学肥料が広く普及するようにもなりました。すると当然のことながら、屎尿の需要と供給のバランスの逆転現象が起こります。そして一般家庭においても、屎尿は買い取ってもらうものから、汲み取り業者にお金を払い処理してもらうものへと変化しました。

現在の衛生感覚ではなかなか受け入れられませんが、処理業者は長い柄のついたひしゃくで各家庭の屎尿を肥桶に汲み取り、人力で街中の屎尿を回収し、台車に乗せて運びました。そして農地還元できない余剰の屎尿は、埋め立てに使われたほか、そのまま海や川に廃棄されました。当時の街の衛生環境は、僕たちの想像をはるかに越える劣悪な状況だったのだろうと思います。後述しますが、同じような状況は戦後まで続きました。

そして昭和に入ると、戦争の影響もあり都市部はなお一層過密化が進みます。

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左)肥桶を運ぶ様子 明治(「江戸・東京の下水道のはなし」より)
中)肥桶を運ぶ様子 昭和初期(「江戸・東京の下水道のはなし」より)
右)ひしゃくを使った屎尿の汲み取り 1950年代(映像「し尿のゆくえ」より)

 

実はこの都市の過密化、そして屎尿の位置付けの変化が、玄関脇のトイレという間取りを生んだ、ひとつの大きな要因であったと、想像力を膨らませながら僕は考えています。

都市の過密化が進むと、住民一人あたりに対する敷地面積も建物の大きさも圧縮されていきます。江戸の会所地が徐々に建物で埋まっていったのと同じように、空き地や庭は、新築、増築、建て替えを含め、どんどんと建物に置き換わっていったはずです。

日本で最初の建築に対する法律が制定されたのは、大正8年(1919年)に公布された市街地建築物法でした。(東京では明治27年の東京市建築條例)ここに初めて建築物の高さや敷地内に設けるべき空地の割合いに対するルールが示されますが、当時はまだ簡単な届け出や書面許可のみで住宅の建設を行うことができたようです。そのため実際には届け出内容にかかわらず、予算の許すかぎり、敷地一杯に建物を建てていたケースも多かったのだろうと想像します。

ちなみに現在の建築基準法が制定されるのは昭和25年(1950年)です。この法律で定められたように、建物が完成し使用を始める前に、完了検査という工事完了時の検査に合格しなければなりませんが、国土交通省発表のデータによると、この最後の完了検査を受けないまま使用されている建物が現在も日本中に溢れていることがわかります。驚くべきことですが平成10年度の完了検査率は4割を切っていました。完了検査率とは、確認済証の交付件数に対する、完了検査を合格した建物の割合いです。(確認済証は、工事前の申請で、建築計画が法律に合致していると認められた場合に交付される証明書です。確認済証の無いまま工事に入ることはできません。)この完了検査率は平成23年時点では9割を超えるようになりましたが、制度を含めて非常にずさんな体制の中で建築業界が回っていたことがよくわかります。そのため、中古物件の購入を検討されている方は、その建物に対して「完了済証」が交付されているかどうかの確認をおすすめします。なぜならば完了済証の無い建物の増築、改築などは法規的に非常にハードルが高くなる場合が多いからです。

話を戻しますが、敷地内の住人の増加は、そのまま排出する屎尿の増加を意味します。ただ、庭が無くなった住宅では、もはやその利用価値はありません。屎尿は回収処分を待つだけの、ただ汚くて臭いものとなります。

すると、厠の配置において検討すべき項目の優先順位が変わってくるはずです。まず何よりも、屎尿回収の際に業者が家を汚すことなく、手早く作業を進められるような場所でなければなりません。そして、やはり、できる限り日常の生活空間から距離を置いた場所に配置したいと思うのも当然です。そもそも圧縮された間取りでは廊下がほとんどありませんので、結果的に通り沿いの玄関の近辺に厠が配置されるようになったというのは、実はそれほど不思議なことではなかったのだと思います。

その後、この増え続ける都市人口に追い打ちをかけたのが戦争でした。そして、その当時の住宅の間取りの変化を端的に表しているのが戦時中の「国民住宅」です。この国民住宅については、2001年にリビングデザインセンターOZONEで開催された「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI」の図録に詳しく説明があります。

”第二次世界大戦勃発前夜、一九四〇年、大政翼賛会が設立される。そして(中略)贅沢を慎み、生活を最低限まで切り詰めることが強いられたが、それを美徳とする風潮が「新体制運動」を支えた。声高に提唱されたのが、国民服であり、国民食であり、国民住宅であった。”

”(当時の建築学会の見解としては)大邸宅を切りつめて小さくしていけば間取りは自ずと決定されるという。住宅の平面を構成する部屋はすべて寝室に転用できるというのが結論であった。”

1930年代に入るといよいよ戦時色が強くなります。日中戦争の終わりは見えず、軍需産業の拡大によって労働力が都市部に集中します。結果、切迫した住宅不足が発生し、労働者たちの住環境は極端に悪化しました。当時の東京の空き家率は1%以下であったそうです。そこで、この局面を打開するために、国家指導のもと打ち出された住宅政策が「国民住宅」でした。しかし1941年12月8日、国はアメリカ・イギリスとの戦争へと踏み切り、状況は改善どころかますます悪化します。当初は24坪のオプションもあった国民住宅の間取りでしたが、戦争末期には建築資材不足が深刻化し、6.25坪までその規模が縮小されました。

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国民住宅の間取り(「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI図録」より)

上の国民住宅の間取りは、左から18坪(36畳 約60㎡)、12坪(24畳 約40㎡)、9坪(18坪 約30㎡)となっています。この変遷を見ると、住宅の間取りが圧縮されていく過程がよくわかります。便所の位置については、18坪の間取りでは家の裏手に隠して配置されていますが、12坪まで床面積が狭くなると、ついに玄関の脇に置かれるようになります。実際にこれは玄関脇しか便所の逃げ場が無いような全体の構成です。そして9坪の間取りともなると便所は玄関脇から全く身動きが取れなくなります。

しかし、この事実を逆の視点を持って見てみると「家の広さが許すのであれば便所は玄関脇に配置したくない」という意思があったことが読み取れます。そして、その現実的な可否の境界線が、床面積18坪と12坪の間だったのだろうと考えられます。

今回は詳しくは触れませんが、一番左の18坪の間取りはいわゆる「中廊下型」と呼ばれる構成です。通風、採光、収納、表と裏の空間、接客の空間、回遊動線など、実はとても丁寧に計画されています。小さいながら伸びやかな空間です。一方、全ての間取りに共通して洋室が姿を消していること、そして、どれだけ家が狭くなっても半間の床の間は削られなかったところに、当時の国の情勢が象徴的に現れているように感じます。

 

ここで、状況は大きく異なりますが、京都の町家の間取りを、屎尿の回収や敷地に対する建物の密度という点から見てみます。下は典型的な2戸連続型の京の町家の間取りです。明治37年(1904年)建造 の建物の実測図になります。(「京の町家」より)それぞれ建物の一番奥にはオクノマ(客間・座敷)と中庭がありますが、この中庭の脇に沿うようにして厠が配置されています。この配置の仕方は、先程例を挙げた明治期の一般的な住宅と同じですが、ここではウラニワ(バックヤード)からも厠にアクセスできるように計画され、屎尿の回収廃棄は裏動線のみの経由、またはトオリニワを介した非常に直線的な動線のみで完結するようになっています。また、敷地を最大限利用した間取りは、その密度にも無駄がありません。京の町家は非常にシンプルでありながら合理的な構成で、同時にとても豊かな生活空間を達成していたと言うことができると思います。

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京都の町家の間取り 2戸連続型(「京の町家」より)

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京都の町家の断面(「京の町家」より)

 

戦後になると屎尿の回収は、人力からバキュームカーを利用した方法へと移行しましたが、その処理状況に大きな変化はありませんでした。終戦時の東京の下水道面積普及率は10%であり、1958年時点でも屎尿処理場は全国60箇所しかありませんでした。これは当時の処理すべき屎尿量の1割にも満たない処理能力だったそうです。(映像「し尿のゆくえ」より)また、連合軍占領下の影響もあり、日本でもこの頃から生野菜を食べるようになったため、屎尿の農地利用も徐々に減少していきました。そのため、都市部で回収された屎尿の多くは屎尿運搬船に載せられ、遠く遠洋の定められた海域に廃棄されました。しかし、これは父から聞いた話ですが、実際には燃料節約のため近海に不法投棄する業者も多かったようです。

日本全国に下水道と水洗トイレが広く普及するのは、高度経済成長期以降です。僕は40年前の1978年生まれの東京育ちですが、イベント会場や工事現場の仮設トイレなどを除けば、汲み取り式のトイレを利用した経験は、大学ラグビー部時代の山中湖にあった合宿所くらいです。地域差もあると思いますが、1970年代以降、日本の衛生環境は急ピッチで改善されてきたはずです。

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左)バキュームカーを利用した屎尿の回収・戦後(「江戸・東京の下水道のはなし」より)</br> 右)屎尿運搬船による屎尿の海洋投棄 1950年代(映像「し尿のゆくえ」より)

 

間取りについて言えば、下水道の整備や水洗トイレの普及が意味するのは、トイレの自由な配置です。それはつまり屎尿の回収や臭気、衛生問題による制約に縛られることなく、それぞれの住宅の間取りにおいて最もふさわしい場所にトイレを配置することができるようになったということです。

ところが、ここで最初の疑問に戻ります。このように現代では自由にトイレを配置できるのにもかかわらず、玄関とトイレの組み合わせは解消されるどころか、より一般的な間取りとして日本の住宅に深く定着しているように感じます。いまさら疑問に思うことすら無いような状況です。

これは一体なぜなのでしょうか。

実はこの背景に、今回まとめた内容以外にも、先程少し触れた「日本人の生活スタイルの変化」つまりは「生活の洋風化」の影響があります。生活の洋風化は「住宅改良運動」や、文部省の主導で進められた「生活改善運動」を中心として、明治後期にその推奨運動が活発化しますが、これは日本の伝統的な住まい方を見直し洋風化することで、国民の既存の生活意識を根本的に転換し、より活動的かつ能率的な生活の場を獲得することを目的としていました。その中で生活改善のための再優先事項とされたのが、畳や板の間を基本とした床座式の生活を改め、椅子・テーブル等を利用した椅子座式の生活を採用すること、そして、これも先に触れましたが、接客を中心とした封建的な住宅の間取りから、家族の日常生活を中心に据えた民主的な間取り構成への移行を図ることでした。

平和祈念東京博覧会 文化住宅 1922年(「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI図録」より)

昭和に入ると、日本でも建築家たちが設計した住宅が徐々に普及するようになります。その建築家たちは西欧モダニズムの影響を存分に受けながら、しかし一方で、画一的な洋風化ではない日本の近代建築のアイデンティティをどう見出すかという大きな命題を掲げて、それぞれの設計思想を組み立てていました。

トイレの配置は住宅内でのパブリック(今の言葉であればソーシャル)な空間とプライベートな空間との領域を規定します。そして生活スタイルの変化はこの領域の変化を伴います。次回の投稿で詳しく考えてみたいと思いますが、現在よく見られる玄関とトイレの組み合わせは、実用的・機能的な側面だけでなく、社会理念に牽引された生活スタイルの変化からも導かれた結果(の名残り)であると言うこともできると思います。

建物全体の中でトイレが置かれた位置に注目すると、建築家たちの設計の意図が浮き上がってきます。そこで次回は、日本への西欧モダニズムの到来や西山夘三の食寝分離論を入り口として、前川國男、丹下健三、村野藤吾、吉田五十八、原広司、石山修武、西沢立衛、Frank Lloyd Wright、Le Corbusier、Alvar Aalto、Robert Venturi、John Pawson、Vincent Van Duysen、Caruso St John Architectsら、新旧東西の僕がとても好きな建築家たちが設計する住宅における、トイレの配置と間取り全体との関係を読み解きながら、そのデザインの背景にあるものについて考えてみたいと思います。

山口文象 山田邸(1936年「昭和住宅史」より)

 


 参考図書

東京エコシティ 新たなる水の都市へ/「東京エコシティ」展実行委員会・法政大学大学院エコ地域デザイン研究所・東京キャナル・プロジェクト実行委員会/鹿島出版会/2006

建築における日本的なもの/磯崎新/新潮社/2004

一目でわかる江戸時代/竹内誠・市川寛明/小学館/2004

「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI」図録/リビングデザインセンターOZONE/2001

博物館明治村ガイドブック/博物館明治村/1999

模型でみる江戸・東京の世界/江戸東京博物館/1997

江戸・東京の下水道のはなし/東京下水道史探訪会/技報堂出版/1995

昭和住宅史/横山正・小能林宏域・磯崎新・林昌二・伊東豊雄・鈴木恂・坂本一成/新建築社/1977

京の町家/島村昇・鈴鹿幸雄 他/SD選書 鹿島出版会/1971

建築の造形/谷口吉郎編/毎日新聞社/1964

現代建築愚策論/八田利也/彰国社/1961

和洋住宅間取実例図集/越本長三郎 著・伊東忠太 校閲/建築書院/1907

 

参考映像

し尿のゆくえ/厚生省監修/1960

 

参考ウェブサイト

効率的かつ実効性ある確認検査制度等のあり方の検討/国土交通省