戦争をしないために

  Posted on Dec 30, 2022 in 建築考察, 建築逢紡(建築勉強会)

昨月、新型コロナ禍で一時中断していた事務所の建築勉強会を約3年振りに開催しました。ご参加いただいた皆さま、どうもありがとうございました。久しぶりに多くの方とお会いし、建築について語ることができ、とても充実した3時間でした。

今回のテーマは「伊勢神宮」と、建築家にとっては やや重たい内容ではありましたが、伊勢の建築と式年遷宮を起点として、私たちが一般的に手に入れることのできる情報を紡ぎ合わせ考察することで、広く新鮮な建築的着眼点にたどり着くこと試みました。テーマの導入については、勉強会のお知らせのブログに投稿したので是非そちらをご覧ください。

伊勢神宮(正式名称 神宮)というのは、建築的にも文化的にも扱いがとても難しく、しかも否応なしに天皇の話題と結びついてしまうので、日本人にとってはかなりデリケートなトピックでもあります。今回は勉強会で触れた内容を部分的に振り返り、改めて伊勢にまつわる考察を深めてみたいと思います。

式年遷宮が始まってから1300年あまり、室町・戦国時代に130年ほどの中断はあったものの、伊勢神宮は20年毎の造替を繰り返し、複雑に入り組んだ歴史を乗り越えて現在の建築・祭祀の形に至りました。そのため、その複雑さを理解するには、実際に伊勢を訪れるだけでなく、歴史的な経緯を丁寧に追いかけながら全体像を捉えていく必要があります。ところが、本を読めば読むほど、知識が増えれば増えるほど、細部に関してはむしろ謎が深まるというのが伊勢の大きな特徴でもあるとも言えます。導入の文章で触れましたが、例えば、千木、鰹木、棟持ち柱などに代表される唯一神明造りの造形由来、正殿の下に心御柱が据えられる理由、なぜ掘立柱なのか、さらには天照大御神の出自など、物語の核となる部分は結局ほとんどわからないままなのです。細かいところでは、その千木の内削ぎ外削ぎの違い、外宮別宮多賀宮、内宮別宮荒祭宮には鳥居が無いこと、正殿に祀られている相殿神の存在(内宮では天照大御神の他に2柱、外宮では豊受大御神の他に3柱)など、それ自体にもともとの意味があるのか無いのかすらわからない謎も数多く存在しています。

正直なところ、これらの謎の解明は、研究者がライフワークとして取り組むレベルの話なので、そこは専門家にお任せするしかありません。一方で、その謎が解けなければ伊勢を理解できないのかというと、決してそうではありません。わからないものはわからないものとして大きく捉えることで初めて浮かび上がる現実があり、むしろその視点を持つことで、伊勢神宮だけに留まらない、建築や文化全般に渡る、より普遍的な問いを見出すことができるようになります。実はここに、私たちと伊勢との非常に大切な関わり方があると僕は考えています。

今回の勉強会の配布資料です

 

伊勢神宮の一番大きな特徴は、やはり式年遷宮の習わしです。遷宮自体は多くの神社でも行われていますが、伊勢神宮での祭りは圧倒的に規模が大きく、20年に一度、内宮・外宮の正殿をはじめとして、14の別宮、宝殿外幣殿、鳥居など65の殿舎、714種1576点の御装束神宝の全てが新しく造り替えられます。近年では2013年に第62回式年遷宮が行われました。

遷宮における正宮・別宮の社殿の造替では、新しいお宮は同じ敷地にではなく、隣に並ぶ同じ広さの敷地に建てられます。そして、御神体は”遷御の儀”をもって新宮に遷され、20年毎に2つの敷地を交互に行き来します。遷宮後、“古殿地”となった敷地では、社殿や垣が解体され、心御柱(しんのみはしら)とそれを守る心御柱覆屋(しんおんばしらおおいや)のみが残されます。遷宮のために一時的に新旧のお宮が並ぶ期間もありますが、垣に囲われた正宮のある敷地と、心御柱覆屋のみ残された古殿地が並んでいる状態が通常の神宮の姿です。

第59回内宮式年遷宮時に並ぶ新旧のお宮 1953年 出典:Wikipedia
現在の外宮 奥に正宮、右手が古殿地
外宮正宮
外宮古殿地 心御柱覆屋
外宮別宮 月夜見宮

 

伊勢の歴史は大きく以下の5つの時代に区分できます。

  1. 伊勢鎮座までの物語(神話の世界、古事記、日本書紀)
  2. 690年の式年遷宮開始から遷宮の祭祀が一旦途絶える室町時代中期まで
  3. 130年の中断を経て式年遷宮が再開された1563年から江戸時代の終わりまで
  4. 明治の王政復古から第二次大戦敗戦までの国家神道体制下
  5. 戦後から現在

ここで詳細は割愛しますが、私たちが目にする伊勢神宮の形の多くは、明治期以降の国家神道下において整備されたものです。“国家神道“とは、あえて簡潔に(少し乱暴に)記してしまえば、“近代天皇制下において作られた事実上の国教制度であり、一般的な宗教より上位にあるものとして国家の統制と教育に利用された神道”と考えてよいと思います。後に“教育勅語”に代表される国体論的なイデオロギーへと繋がり、第二次大戦の大きな推進力ともなりました。皇祖神である天照大御神を祀る伊勢神宮が神社の総本山とされたのは、この国家神道体制下においてです。

もちろん国家神道は何もないところから生まれたわけでも、明治になって突如として現れたわけでもありません。平田篤胤の復古神道や尊皇攘夷の水戸学など、その偏った思想の素地は江戸時代後期に着々と準備されていました。

一方で江戸時代と言えば、伊勢神宮が一般の民衆にとって非常に身近な存在であった時期でもあります。約60年周期で全国から伊勢神宮を一斉に参拝する”お蔭参り”が大流行し、文政のお蔭参り(1830年)では、おおむね3,000万人あまりであった当時の日本の人口に対して、400万人以上もの人が伊勢を参詣したとのことです。

「伊勢参宮名所図会」”内宮宮中図”(1797年)出典:Wikipedia 
「伊勢参宮名所図会」”内宮宮中図”(1797年)古殿部分拡大 出典:Wikipedia 

1797年に作成された”伊勢参宮名所図会”は、室町時代以降盛んになった民衆による“お伊勢参り”のための計8冊にわたる案内書です。そこには当時の伊勢の様子が生き生きと描かれていますが、その中の一画、”内宮宮中図”の左端を見ると、遷宮後の“古殿”がそのまま残され、人々がその建物を参拝するために行列を作っている様子が描かれています。参拝者は古殿の前で神職に供え物か何かを渡しているようにも見えます。実は、現在のように遷宮後の正殿を解体するようになったのは、明治5年(1872年)になってからのことで、江戸時代以前の正殿は40年間同じ場所に立ち続けていました。そこで改めて下の明治2年度造り替えの内宮の写真を見ると、奥の古殿地にまだ古殿の姿があることに気付きます。

明治維新直後の内宮 出典:「伊勢神宮」平凡社
現在の敷地では内宮はほとんど見えません

現代の神宮正宮は4重の垣に囲われ、特に一番外側の板垣は高さもあり、私たちは正殿の姿をほとんど見ることができません。それに対し、江戸時代の垣は2重で、その高さも低く、古殿を間近で見ることもできました。そのため伊勢を訪れた人たちにとって、神宮の建築造形は遥かに身近なものだったのではないでしょうか。

伊勢参宮名所図会には、内宮・外宮のそれぞれに併設されていた末社順拝(巡拝)所の一画もあります。巡拝所は、今の言葉で言えば時短のために、神宮末社の遙拝所を一ヶ所に集めた場所です。内宮宮中図の右上に雲に隠れるように描かれているのが巡拝所です。当時の伊勢は神域内部においても非常に賑やかな場所であったことが伝わってきます。

「伊勢参宮名所図会」(1797年)末社順拝の図 出典:三重県総合博物館

 

もちろん伊勢神宮は、純粋に建築的な魅力からも考察することができます。その際に迫られるのは、”私たちは答えの出ない意匠とどのように折り合いをつけるのか”ということです。美しいとは何か、魅力的な建築とは何か、心に響く環境とは何か。ここにひとつの答えはありません。

伊勢の建築や祭祀を丁寧に見ていくと、その細部から全体にわたって私たち日本人の美意識に響く多くの仕掛けが施されていることがわかります。代表的なところでは、”引き算の美学”や”隠す”といった操作、松岡正剛がその著書で頻繁に触れる”アワセ・キソイ・ソロイ”の手法などが挙げられます。これらの手法の全ては、受け取り手の想像力に強く働きかけるものです。

“引き算”や”隠す”という手法は、枯山水庭園や屏風絵などでよく知られていますが、伊勢では、心御柱覆屋のみが残された古殿地や、4重の垣によって徹底的に隠された正殿と、非常にわかりやすい形でこれらの手法が用いられています。式年遷宮で最も重要な“遷御の儀“も、夜間暗闇の中、その祭儀の全てが隠された状態で執り行われます。

“引き算” 左:心御柱覆屋 右:龍安寺石庭
“隠す” 左:外宮板垣 右:聚楽第図屏風 出典:Wikipedia
昭和28年(1953年)10月5日 外宮遷御の儀 出典:Wikipedia

 

”アワセ、キソイ、ソロイ”とは、お題を合わせ、要素を競わせ、最後にそれらを揃えることで、さらにひとつ大きな世界観を作り上げる方法です。屏風絵や襖絵、掛け軸など、日本文化を代表する様々な表現にその手法が取り入れられてきました。

“扇面散貼付屏風” 俵屋宗達 出典:「名作誕生-つながる日本美術」図録
仙人掌群鶏図(西福寺)伊藤若冲 1789年

 

内宮 出典:「伊勢神宮」平凡社

伊勢神宮の建築様式は“唯一神明造”と呼ばれ、その名称からも明らかなように、伊勢神宮のみに許された特別な建築様式です。主な特徴として、総檜の素木造り、掘立柱(地中に直接柱を埋めて立てる方法)、棟持柱、搏風(はふ)を伸ばした千木、棟の上に置かれた鰹木、床下に据えられた心御柱、平入り、萱葺屋根、板倉造りなどが挙げられます。

内宮、外宮の正殿はともに唯一神明造ですが、それぞれの建築を構成するディテールは大きく異なり、明らかに両宮が対となり、同時に両宮でセットとなることを念頭に、緻密なデザインがなされていることがわかります。冒頭に触れた千木の内削ぎ外削ぎの違い、鰹木の数(内宮10本、外宮9本)、木組みの順番が逆になっていること(京呂組の内宮は桁の上に梁、折置組の外宮は梁の上に桁)などはそのデザインの代表的な例です。さらには社殿配置の違い(内宮は正殿の背後に宝殿、外宮は前に宝殿)、遷宮に伴う祭りの方法(内宮の川曳、外宮の陸曳)、別宮、摂社、末社、所管社の存在、そして日々の祭儀を含めて、伊勢を構成する全ての要素が競い合い、撚り合わされ、壮大な世界観を作り上げています。そして、私たちもその空間に身を置き、神域でのしきたりを守ることで(例えば通行の左右、外宮は左側通行、内宮は右側通行)、その世界の一部となり伊勢を体験します。

ここでひとつ注目すべきは、伊勢で体現されているのは、天照大御神を中心とする一神教的性格の強い世界観だということです。一般的な八百万の神の世界観とは異なり、決してうつろい揺らぐことがありません。これは古の時代から日本という国家、天皇の存在と深く関係してきた伊勢ならではのものです。そして、この世界観の維持に大きな役割を担っているのが、まさに式年遷宮のシステムです。20年に一度、必ず全てが新しく生まれ変わることで、伊勢は物事の始まりと終わりを告げる時間軸から切り離され、むしろ永遠の概念と結びつきます。

左側 外宮・右側 内宮 社殿配置航空写真 出典:GoogleEarth
内宮・外宮立面図 出典:伊勢神宮・出雲大社 新潮社
神宮の建築群
お木曳行事:内宮領の川曳(かわびき)に対する外宮領の陸曳(おかびき)
日々の祭儀

 

よく言われるように、現代にも通じる日本の美意識が確立されたのは室町時代でした。それではなぜ7世紀末から続く伊勢の建築にも共通した美意識が反映されているのでしょうか。このヒントとなるのも、やはり式年遷宮による反復のシステムです。式年遷宮と言うと、造替の度に全く同じ祭儀が繰り返され、全く同じ建築が造られ続けてきたと思われていますが、実際にはそうではありませんでした。

「伊勢神宮」平凡社 昭和48年

上は明治22年度第56回式年遷宮後の写真です。この造替では伊勢を当初の古式に戻すという意図のもと、内宮の宝殿が、正殿との並列配置から、正殿の後方への配置に変更され、殿地の形状も大きくデザインし直されました。(先程の明治2年度造り替え後の写真と比較してみてください)もちろんその背景にあったのは明治政府の王政復古の思想です。一方、放送大学図書館のホームページには同じ明治22年遷宮後の外宮の写真がありますが、手前の古殿地には雑草が生い茂り、現在の汚れのない雰囲気とは大きく異なる様子も見受けられます。(ただし明治22年遷宮後だとすると殿地の東西が合わないように思います。)また、戦後、GHQの占領が解かれた後、昭和28年(1953年)に4年遅れて行われた第59回式年遷宮では、明治期以降追加された多くの煌びやかな装飾金物が改めて取り除かれたこともわかっています。

近年の遷宮の事業費を見ると、第60回式年遷宮(昭和48年・1973年)では60億円、第61回(平成5年・1993年)では327億円、第62回(平成25年・2013年)では550億円と毎回大幅に増加しています。もちろん物価変動も考慮しなければなりませんが、事業費の大きな変化は、遷宮に伴い行われる祭儀の具体的な内容の変化を示唆する要素でもあると思います。建築的に見れば、使用する木材の変化、求められる施工精度や大工技術の向上などは直接的に建設工事費に影響するものです。もちろんこれほど単純な話ではありませんが、より腕の良い大工が、より良い材料を使って、より丁寧な仕事を行えば、それだけ多くのお金がかかります。

 

「大工木割秘伝書」江戸時代 出典:国立国会図書館デジタルアーカイブ

室町・戦国期には130年近く式年遷宮が行われない時期がありました。その内の約80年は、混乱する国内情勢を背景に、外宮の御饌殿(みけでん)を除いた全ての社殿が倒壊していたようです。この130年という時間は、祭祀という観点からは中断かもしれませんが、建築的な視点では“断絶“に近いものだったはずです。例えば、伊勢神宮のものではありませんが、江戸時代の大工の秘伝書である“木割り書”を見ると、その内容は図面というよりも限りなく概要書に近いものです。徒弟制の大工の世界で、目の前に立つ建築物を介した代々の関係が一度でも途切れてしまえば、木割り書にある情報だけを頼りに全く同じ建物を再現することはできません。当然、見本となる建物が存在しなければ正誤の確認のしようもありません。

その後、中断されていた遷宮の再開と継続に大きく寄与したのが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者たちでしたが、実際に伊勢では社殿の再建にあたり、神宮の禰宜と大工の棟梁が、それぞれの記録に残る寸法を突き合わせ、齟齬を擦り合わせながら、新しい建築の形を探る過程があったことが知られています。その機会に仏教由来のデザイン要素が部分的に変更されたこともわかっています。

このように、式年遷宮とは多分に時代の美意識や解釈を取り込むことのできるサイクルでありシステムなのです。これは伊勢が常に洗練を続けていると見ることも、その時々の思惑の影響を受けやすいと見ることもできると思います。ただ、いずれの場合においても、その根底にあるのは伊勢の核心の全てが秘匿されているという現実です。現状では、私たちは“有る”ものが隠されているのか、“無い”ことが隠されているのかすら知ることができません。しかしながら、まさにここにデザインの原動力が生まれます。わからないからこそ、あるべき姿が追い求められます。時代時代における“正しい伊勢の姿”が意識され、常にデザインが更新されます。そして核心の秘匿が続く限り、そのデザインプロセスも終わりを迎えることがありません。(詳しくは、磯崎新の「始原のもどき」を読んでみてください。)

神宮の造形には文字通り有無を言わせぬ迫力が宿っていますが、これは1300年という時間をかけて、60回以上も同じお題に対するデザインのアップデートを繰り返してきたことと無関係ではありえないはずです。伊勢を訪れた人たちは、そのアップデートが今後も永久に続いていくという事実を前にして、歴史の積み重ねと未来への予感とを同時に伊勢の建築に投影します。受け取り手の想像力を喚起する凄みというのも、建築造形と式年遷宮のシステムが掛け合わされることで生み出される伊勢神宮の大きな特徴です。

 

”名建築論” 伊東忠太 昭和10年 (1935年)左ページにタウトの話も出てきます

ところが近代の歴史を振り返ると、伊勢神宮の建築的価値を発見したのは、日本人ではなく、ブルーノ・タウトというドイツの建築家でした。例えば、日本で最初の建築史家であった伊東忠太は自身も建築家であり橿原神宮や明治神宮など数々の神社建築の設計を手掛けましたが、昭和10年(1953年)に執筆した”名建築論”の中で、伊勢の建築について以下のように述べています。

「昔ながらの簡素なる檜造茅葺屋根に千木高しり、勝男木駢(なら)ぶ形式であるので、明治初年西洋の建築学を標準とした時代には、これを以て原始的南洋的の低級建築なりとし、建築学上無価値なるものとして顧みられなかった。」

“建築学上無価値なるもの”と評価していた建築が、神社の総本山として日本で最も重要なポジションに就いていたわけです。当時の建築界では伊勢の扱いを持て余していたというのが正直なところだったのではないでしょうか。そして伊東は遡る明治31年(1901年)の文章、”日本神社建築の発達”の中で、以下のようにも述べています。

「現に、延暦の儀式帳に載っているところと、今日現に見るところとを比較して見ると、容易にその差異を発見するのであります。しかし、大神宮のことは余り精しく述べることは、畏れ多いことでありますから、略しておくことと致します。兎に角、今日の大神宮の形式は、少なくとも天武天皇當時(当時)のものと、大体に於いては相違ないものと見て宜しいのでありませう。」

延暦の儀式帳とは平安時代に作成された内宮と外宮に関する儀式書です。ここで伊東は、平安期からの神宮の建築形態の変化を指摘しつつも、それ以上踏み込むことはせず、建築の評価そのものに触れることを憚っている様子が伝わってきます。伊東はその他の著書でも、伊勢については畏れ多いので詳しくは触れないという姿勢を繰り返しました。

 

外宮:古絵葉書 明治33年前後撮影 タウトが特に讃えたのは外宮でした

ブルーノ・タウトは昭和8年(1933年)にナチスの迫害から逃れるために来日し、3年半を日本で過ごします。(家族を残し愛人とですが…)その間に伊勢も訪れ、神宮の建築をパルテノン神殿に比肩するものとして讃えました。

その言葉の重みを理解するには、西欧建築の歴史の流れを知る必要があります。ルネサンス以降、西欧では古代ローマ文明を人間文化の原点として捉え、その基盤の上にこれからの新しい世界を築こうとしていました。ルネサンスと言えば、15世紀後半のレオナルド・ダ・ヴィンチ作“ウィトルウィウス的人体図”をご存知の方も多いと思いますが、ウィトルウィウスは現存する最古の建築書を残した古代ローマの建築家です。そして、ダ・ヴィンチの人体図はこの建築書にある記述をもとに描かれたドローイングでした。

やがて18世紀に入ると、学問としての考古学が発展し、注目の対象はローマ文明のルーツであるギリシャ文明へと向かいます。その中で、パルテノン神殿は、紀元前5世紀から続く揺るぎない建築規範としての立ち位置を確立しました。タウトはそれに並ぶものとして伊勢神宮を称揚したのです。

パルテノン神殿 紀元前438年
左 ウィトルウィウス的人体図 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1487年頃 
右 ウィトルウィウス建築書 原著は紀元前30年頃

タウトが日本を訪れたのと同じ頃、ヨーロッパでは、一般大衆が主役となった資本主義社会の中で、工業化、量産化を軸とした標準化の先にある新しい建築の形、つまり、モダニズムの建築の模索が始まっていました。これは単純に建築の形態や様式に留まる話ではなく、新時代にふさわしい社会的・政治的・文化的思想を含めた大きなムーブメントでした。この動きを牽引したのが、ドイツの芸術学校バウハウスやその卒業生ら、そして、後に上野の国立西洋美術館を設計することになるフランスの建築家ル・コルビュジエです。現代建築のほとんどが、直接的にこの時代の延長線上に位置します。日本ではコルビュジエのもとで働いた前川國男が1932年に弘前に建てた“木村産業研究所(現 弘前こぎん研究所)”が、モダニズムの考えを反映した最初期の近代建築とされ、国の重要文化財にも指定されています。

コルビュジエは1923年の著書、“建築を目指して”(Vers une architecture)の中で、パルテノン神殿と、時代の最先端の工業技術によって作られていた商船・飛行機・自動車とを並べ、これらを標準化を出発点とした淘汰の産物であると高く評価します。また、文化とは淘汰と努力の到達点であるとも述べます。これに対し、当時の一般的な建築デザインを「因習の中で窒息している」と強く批判しました。この本には依然キャリアの序盤にあったコルビュジエの情熱の叫びが詰まっていますが、ここでもやはりパルテノン神殿は絶対的な指標として扱われています。有名な「家屋(住宅)は住むための機械である」という言葉もこの本の中の一節です。

バウハウス・デッサウ校舎 ヴァルター・グロピウス 1926年
左:「建築をめざして」新装版はパルテノン神殿と自動車の表紙
右:ラ・ロッシュ邸 ル・コルビュジエ 1925年
サヴォア邸 ル・コルビュジエ 1931年
木村産業研究所 (現 弘前こぎん研究所) 前川國男 1932年 重要文化財
国立西洋美術館 ル・コルビュジエ 1959年

 

桂離宮 江戸時代前期

タウトは伊勢だけでなく桂離宮を絶賛した人物でもありました。明治維新以降、日本の建築家たちは“建築における日本らしさとは一体何か。”という大きな問いを抱え続けてきましたが、タウトやコルビュジエらの存在、そして絶対指標であるパルテノン神殿に並ぶ伊勢神宮という構図をもって、初めて日本の伝統建築と時代の先頭をゆくモダニズムの建築とを直接的に結ぶ物語を作り上げることに成功します。それは時として、日本建築は既にモダニズムの考えを超えていたという話にすら飛躍しました。その後、“日本らしさ”というテーマは、様々な形をとりながら戦後まで続くことになります。

外側からの視線を持ってして自国の文化を再発見すること、また、外圧の影響下において自国の立ち位置を再確認すること。これは日本の歴史において幾度となく繰り返されてきました。天武天皇の時代、国をまとめる手段として仏教とともに神道や伊勢神宮の祭祀が整備されたことは、白村江の戦いでの大敗がひとつの大きな契機でした。幕末の黒船来航後の明治維新・王政復古も同様の構図です。

 

カンタベリー大聖堂 イギリス 12世紀 世界遺産

伊勢神宮には日本人の美意識に響く多くの仕掛けがあると書きました。それではなぜタウトのように、海外の異なる文化や美意識の中で育った人たちにも、その魅力が伝わるのでしょうか。逆に、なぜ私たちは異国の街や建築を訪れて、時に心が震える感動を覚えるのでしょうか。

JR京都駅を設計した原広司の著書、“集落の教え100”(彰国社 1993年 )は、原氏が行った世界中の集落や都市の現地調査をまとめた一冊です。その中に、”ある場所の伝統は、他のいかなる場所における伝統でもある。”という、僕がとても好きな項があり、そこに「文化は伝播によって説明しきれるものではなく、離散的な多発性を併せて説明されなくてはならない。」「集落の歴史を地域ないしは民族史と捉えるのではなく、人類史として捉えて、グローバルな視点から文化の移植と展開がはかられるべきである。」と書かれています。これらは僕自身の体験としても強く共感できる言葉です。

文化は往々にして、その優位性や固有性を抽出した形で語られがちですが、他と差別化ではなく、共通項を抱きかかえるようにして、横の繋がりを紡いでいく視点の方に圧倒的に大きな可能性が宿っていると思います。建築においても、時代や場所を超えたところ、つまり時空を超えた関係性の中で、デザインを並列的に見ると、建築というジャンルそのものが持つ奥深さと面白さに気づくことができます。そのためには継続的な勉強(と好奇心)が欠かせませんが、例えば、ミケランジェロの造形、縄文時代の土偶、カルロ・スカルパの建築と伊勢神宮を横並びにして見ることで浮かび上がるものがあるはずです。ここに答えはありません。あるのは可能性だけです。

左上:メディチ家礼拝堂ニッチ ミケランジェロ 1524年 右上:縄文の女神 西ノ前遺跡 縄文時代中期
左下:ブリオン・ベガ墓地 カルロ・スカルパ 1972年 右下:内宮 2007年撮影

 

Old Royal High School, Thomas Hamilton, 1829年 スコットランド・エジンバラ (世界遺産の一部)
大英博物館 Sir Robert Smirke 1847年 イギリス・ロンドン

少し話は逸れますが、18世紀後半から西欧では“Greek Revival” という動きがありました。直訳すれば“ギリシャの復活”です。現代と同じように、当時も既にギリシャ建築は遺跡という形でしか残っていませんでしたが、先程少し触れたように、学問としての考古学が発展する中、今度は考古学的な視点からのギリシャ文明が再発見されます。それはやがて原点であるギリシャ様式の建築を現時代的に復活(Revive)させようとする動きへと繋がりました。その代表例がロンドンの大英博物館です。ギリシャ建築に、建築そのものの純粋形を求める姿勢には、確かにある種の憧憬も含まれていましたが、地球の反対側でも2000年以上の時を経て試みられる原点回帰のデザインプロセスがありました。

 

根津の不忍通り

写真は僕の事務所がある現在の根津の風景です。残念ながら都市景観としての魅力は何もありません。これは頭で理解できる事柄や算盤を弾ける価値基準だけで判断を重ねた先に生まれた街の顔です。10年20年単位の経済性や利潤を求めた結果、100年200年単位で見た景観の魅力は滅却されました。もちろん合理的で美しい建築も、経済的で魅力的な建築もたくさんあります。一方、経済的で合理的な理由を持って作られた建物は、必ずしも魅力的な建築とはなりません。これはとても難しい問題です。目の前の現実を蔑ろにすることなく、その上で自分が生きてはいない未来への視点を持ち続けるには、少なくとも目の前にある問題を解決するだけではないデザインが求められます。

 

東京銀座要路煉瓦石造真図 歌川国輝(二代) 明治6年(1873年)出典:東京都立図書館

明治に入り、日本は文化的にも経済的にも西欧列強国の仲間入りをすることが目標となりました。街の表情が着々と西欧化し、丸の内の一丁倫敦や東京駅の丸の内駅舎が建てられたのもこの時代のことです。

その明治も後半になると、日本は着実に軍国化の道を進みます。伊勢神宮の重要性はこれまで以上に高くなり、伊勢を“神都”として扱う様相も強くなりました。国家の統制を念頭に、国家神道の思想が教育の現場においてもはっきりと組み込まれ、高等小学校の教科書では、必ず天照大御神の伊勢鎮座の経緯とともに伊勢神宮が取り上げられるようになります。また、教員向け指導要領(国語読方教法及教授案)でも、第一課“伊勢神宮”として「伊勢神宮に関する知識を授け、天照大神と我国との関係及八咫の御鏡の由来を明にし、神宮の最も崇敬すべき所以を知らしむ。」とその指導目的が定めれました。ちなみに、第二課は“楠木正行でとその母について”で、「(前略)忠君愛国の志気を養うべし。」とあります。

内宮:古絵葉書 明治33年前後撮影
「伊勢参宮名所案内之図」 山下惣兵衛  大正11年(1922年)
“高等小学校外読本” 明治38年
(内宮の鰹木が9本です。前のページにも9本との説明が書いてありました。誤植でしょうか。)
左:江戸時代の内宮神域の様子 度会郡宇治郷之図 1861年 出典:図解伊勢神宮 
右上:徴古館 古絵葉書より 大正時代 右下:旧宇治山田郵便局電話事務所

一方で、伊勢でも他の街と同じように、未だ近代国家の目指すべき姿であった西欧風の建物が多く建てられました。明治42年(1909年)には、日本で初めての私設歴史博物館であった徴古館(後の神宮徴古館)が竣工しますが、ここでもルネサンス風の建築デザインが採用されています。建築家は片山東熊。徴古館の他にも同時期に、迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)や東京国立博物館の表慶館の設計をしています。東京駅を設計した辰野金吾とは大学の同級生でした。徴古館の外観からは、本場イタリアには無い“平家建てルネサンス風”のデザインにとても苦労した様子が伝わってきます。

内宮の神域を見ると、江戸時代には宇治橋と一の鳥居の間に御師(おんし)の館が立ち並んでいました。御師とは現代で言えば、伊勢神宮のプロモーターであり、お伊勢参りのツアーコーディネーターとしての役割を担っていた神職でしたが、明治4年(1871年)に入るとその御師の職が廃止され、神域の館跡は、有栖川宮威仁親王を総裁とした神苑会によって明治22年(1889年)にフランス式庭園の神苑として整備されました。

外宮入り口の前には、現在も旧宇治山田郵便局電話事務所が立っています。竣工は大正12年、設計は旧逓信省の吉田鉄郎でした。こちらは和とも洋とも言えないデザインで、不思議な魅力のある建物です。(1年前に訪れた際には美味しいチョコレートのお店が入っていました)吉田は東京駅前の東京中央郵便局(現在は丸の内KITTE)の設計者でもあります。

野球や他のスポーツなどで、敵性語として英語が禁止されたのも、実際には太平洋戦争直前の1940年に入ってからでした。建築はその特徴として計画から建物が立ち上がるまでに何年もの時間がかかるため、文化や時流の反映という意味では非常に鈍足です。太平洋戦争下では日を追うごとに資材もなくなり、建物の規模によっては建築制限もかかっていました。ドイツやイタリアとは異なり、日本ではファシズムのイデオロギーを体現したひとつの建築様式というのは結局生まれませんでしたが、これは単純に戦時下であったというだけでなく、日本は歴史的に見ても、他国から取り入れた文化慣習を出発点にして、長い時間をかけながらそれらの和洋化を進め、最終的には独自のものとして発展させてきたという、文化的な背景も大きく関わっていると思います。

ただし、神社建築においては、明治政府が新しい神社の様式に、伊勢神宮の唯一神明造の類型である“神明造”(しんめいづくり)を推奨したことで、明治以降各地で神明造の神社が建てられるようになります。国家との距離も近く、三種の神器の“草薙の剣”を祀る熱田神宮では、この時期に本殿が尾張造から神明造へと改築されました。

そして、日本が侵略した地域に建てられた神社にも、大日本帝国統治の象徴として神明造が採用されました。私たちが決して忘れてはならない歴史です。

京城朝鮮神宮 伊東忠太 大正14年(1925年)出典:Wikipedia

 

“なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる”

西行が伊勢神宮を訪れた際に詠んだとされる有名な句です。“どなたがいらっしゃるかはわからないけれども、その有り難さに涙がこぼれる”という意味です。古くから伊勢の説明では必ず取り上げられ、当然、戦前の教科書にも引用されていました。それでは、現代に生きる私たちは、この句をどのように受けとめることができるのでしょうか。

磯崎新は「西行の和歌さえあれば、畏怖する力の存在は説明を超えて、承認される」、「西行のこの和歌は、以後のイセの神宮建築の評価を決定づけてしまった感がある」と述べています。つまり、ここに思考停止の危うさがあると指摘しているのです。

神宮司庁が出版している公式ガイドブック“図解伊勢神宮”には、第57回式年遷宮を控えた明治37年(1904年)、当時の大臣らが、御用材の不足を理由に、神宮の建築を土台に礎石を置きコンクリートで固める方式に変更すれば200年は保つことができると明治天皇にご提案するも、天皇はそれを退けられ古式を守る大切さを諭された、との説話が載っています。

ひとりの建築ファンとしては、今後も可能な限り現在の形の伊勢の建築を作り続けてほしいというのが素直な気持ちです。同時に、地球の環境問題はとっくに国という枠組みの中では捉えられないということも理解しています。内宮正殿の扉は檜の一枚板を使いますが、そのためには樹齢500年(資料によっては900年)に近い材が必要と言われます。ここで、その扉を20年毎に造り替える意味について考えることは、先に述べた、“答えの出ない意匠とどのように折り合いをつけるのか”という問いへと繋がります。もちろんロジスティクスやオペレーション、環境アセスメントについてだけの話ではありません。また、この問いは決して伊勢神宮に限ったものでもありません。現代のように、ものごとの相互関係が極めて複雑化している状況において、白黒はっきりと線引きできる事象などまずありえません。その中で、私たちは日常的に答えの出ない問いに対し、意識するしないに関わらず、たくさんの選択を続けながら毎日を生きています。

 

伊勢神宮のホームページより

長くなりましたが、勉強会ではこの他にも原始の信仰形態、古事記・日本書紀の概要、一般的な神社や寺の建築形態や配置の展開、神仏習合の建築への影響、神宮と仏教との繋がり、両部神道や伊勢神道、内宮と外宮のパワーバランス、神宮における異文化の影響、神仏分離令と廃仏毀釈、大嘗祭と大嘗宮、ファシズムと建築デザイン、戦中戦後の丹下健三、人間と建築が持つ時間軸のズレなどについてお話をしました。

ここでは最後に、伊勢神宮のホームページにある式年遷宮の説明について触れたいと思います。そこには、“国民総奉賛の式年遷宮へ”として、以下のように書かれています。

「明治時代に入ると古制の精神に復し、造神宮使庁が官制として設けられ国家の盛儀として晴れやかに斎行されましたが、戦後の第59回式年遷宮(昭和28年)はGHQの神道指令によって国家の手を離れ、国民の奉賛に主軸が移行して行われるようになりました。(中略)ただし、式年遷宮は国民が中心となって行うということではなく、あくまでも天皇陛下の大御心を体して行われる本義に基づくのであり、それが普遍的な精神といえます。」

この内容に、”国民総奉賛”という枕詞が覆いかぶさると、どこかざわついた気持ちになるのは、きっと僕だけではないはずです。言うまでもなく日本には、仏教、キリスト教、イスラム教を代表として様々な宗教を信じる方々が暮らしています。それを承知の上で使われる“国民総奉賛”という言葉には、いまだに神道をその他の宗教の上位に位置するものとして捉える国家神道的感覚の名残がありませんか。それだけでなく、私たちもその感覚を自分自身に許してはいませんか。

今、伊勢は観光名所として毎年多くの人々が訪れ、メディアにも頻繁に取り上げられています。昨年末に僕が訪れた際も、観光客と修学旅行生で大変な賑わいを見せていました。ただ、このような一見穏やかな時代にこそ、平和に対するアンテナの感度を一段と上げなければならないということは、先述した江戸から明治にかけての歴史が教えてくれました。例えば、明治神宮のホームページに、「今こそ、私たちは教育勅語の精神を再認識し、道義の国日本再生のために、精進努力しなければなりません。」として教育勅語が大きく紹介されていることをご存知ですか。一旦戦争が起きてしまったら、その先にはもう泥沼しかないということは、この1年のロシア-ウクライナ情勢からも明らかです。政治と戦争がどうしても切り離せない現実がある中で、民主主義のシステムにおいて平和を守るために一個人としてできる最初一歩、かつ、最大の一手は、必ず投票に行くことだと僕は思っています。今回、とても長い文章を書きましたが、結局一番お伝えしたかったのはこの部分です。

 

ホワイトボードでのブレーンストーミング

伊勢神宮を訪れると、まさに西行の歌のように、非常にありがたいものに触れる感覚を覚えます。背筋が伸び、気持ちを新たにまた頑張ろうと思える空気を確かに感じます。それでもなお、私たちは決して思考停止に陥ることのなく、日々の現実と向き合い続けなければなりません。

勉強会の後、ホワイトボードに書きなぐった言葉たちが、その迷いも含めて、参加いただいた皆さんに伝わったようで嬉しく思いました。

(敬称略)

 


余談になりますが、この勉強会の内容は、夏に目黒区生涯学習コースの“めぐろシティカレッジ”さんで担当した式年遷宮についての講義がベースとなっています。“日本の古層”をテーマとした連続講座の一講義でしたが、ご縁があり、錚々たる先生方に混ぜていただき、歴史家でも専門家でもない僕が伊勢神宮について話すという機会をいただきました。ここでは事前に決まっているお題を与えられて、講師はそれについて準備をして話をするというスタイルで、考えようによってはとても恐ろしいシステムなのですが、やはり一番勉強になったのは僕でした。

講義の準備にあたり、「とりあえず伊勢の建築を見に行こう。」と、13年振りに伊勢を訪れたのが昨年末。「やっぱり正宮の建築はほとんど何も見えない…」という既にわかりきった現実を再確認し、完全に不完全燃焼のまま(そんな表現あるのかわかりませんが)東京に戻りました。今の敷地だと内宮は特に見えないんですよね。「はて、どうしたものか。」と暗い気持ちで神宮をウロウロとしましたが、この時に、謎解きを目指すと間違いなく沼にハマると気づけたのは後々大きかったように思います。(まだ言っていいのかどうかわからないのですが、来年もめぐろシティカレッジさんでひとつ講義を担当します。)

伊勢神宮関連の本は数限りなくありますが、いわゆる起源探しの本が多く、しかも読む本読む本異なる結論へと着地するので、僕のような一素人は、モヤモヤとし戸惑うことが多くありました。答え合わせもできないですし。(いつかタイムマシンは発明されるんですかね。)いずれにしろ物語の核心がわからないので、外堀を埋めることでしか論が成り立たないというジレンマはあるのかもしれませんが、そこに強いバイアスが入り込みやすいというのも、また伊勢の特徴かと思います。他方で、目の前にある伊勢、目の前で起きている伊勢を冷静に分析する文章が思いのほか少ないようにも感じました。

その中で、磯崎新さんが書かれた“始原のもどき”は本当に示唆に富んだ内容となっています。初めて読んだのはもうずいぶん前のことでしたが、今回の講義にあたって改めて読み返してみると、びっくりするほど内容が詰まっていることに気付きました。既におわかりの方も多いかと思いますが、今回の勉強会の内容は、ほとんどこの磯崎さんの文章を起点として内容を構成しました。同タイトルの本もありますが、“建築における「日本的なもの」“(新潮社 2003年)の中にも収録されています。

この本に限らず、磯崎さんの著書には、人類がこれまでに辿ってきた建築文化を理解する上で知るべきプレイヤーと出来事の全てが網羅されています。大げさではなく。それはそれは膨大な量の知識です。そして、その知識を解体・再構築する思考も構成力もずば抜けていると思います。これほど建築に対する知的好奇心を刺激してくれる文章を書ける人を僕は他に知りません。

下に勉強会をするにあたって参照した本のリストを挙げました。伊勢神宮を建築的に見るという視点からは、先に挙げた磯崎さんの“建築における「日本的なもの」“に加えて、丹下健三・川添登・渡辺義雄さん共著の”伊勢:日本建築の原形” (朝日新聞社 1962年)、そして井上章一さんの“伊勢神宮 魅惑の日本建築”(講談社 2009年)の3冊は必ず目を通すべきと思います。これで伊勢を見る視点の最初のバランスが取れるようになります。

勉強会は、建築の専門的な知識の無い方でも十分に楽しんでいただけるように毎回内容を組み立てているつもりです。どなたでも参加いただけますので、ご興味がありましたら、ぜひ遠慮なくご参加ください。また、建築設計に携わる方々とは、もう少し踏み込んで、図面に引く一本一本の線について一緒に考えていければ思っています。不定期ですが今後も開催しますので、よろしくお願いします。

追記:この文章を投稿しようと最終チェックをしていたところ、磯崎さんが亡くなったとニュースで知りました。お疲れさまでした。ありがとうございました。


主要な参考図書・資料

伊勢参宮名所図会 / 作者不明(三重県総合博物館所蔵) / 1797 

小学日本画帖 : 高等科用. 巻7 / 深田直城 画 / 細謹舎 / 1900年

国語読方教法及教授案 高等小学科第2学年 前記 / 日本書籍 / 1904

高等小学校外読本、第2学年上巻1/ 教育資料研究会 編 / 学海指針社 / 1905

歴史参考集古図譜 / 好古社出版部 編 / 青山堂ほか / 1906

伊勢神宮と神社 / 鈴木暢幸 編 /大正書院 / 1919

神都鳥瞰図 / 橋本鳴(伊勢市立修道小学校蔵))/ 1934

日本建築の研究 上・下 / 伊東忠太 / 1936

草庭:建物と茶の湯の研究 / 堀口捨己 / 白日書院 / 1948

THE ARCHITECTURAL BEAUTY IN JAPAN / 堀口捨己ほか / 国際文化振興会 / 1955

伊勢:日本建築の原形 / 丹下健三 川添登 渡辺義雄/ 朝日新聞社 / 1962

日本のやしろ 伊勢 / 渡辺義雄 / 美術出版社 / 1963

建築をめざして / ル・コルビュジエ(吉阪隆正 訳)/ 鹿島出版会 / 1967

日本の建築 歴史と伝統 / 太田博太郎 / ちくま学芸文庫 / 1968(2013再販)

表徴の帝国 / ロラン・バルト 宗左近 訳 / 新潮社 / 1974

The Classical Language of Architecture / John Summerson / Thames & Hudson / 1980

伊勢の大神:神宮の展開 / 上田正昭 編 / 筑摩書房 / 1988

日本名建築写真選集 伊勢神宮・出雲大社 / 渡辺義雄 稲垣栄三 梅原猛 / 新潮社 / 1993

GA No.74 Giuseppe Terragni / A.D.A EDITA Tokyo Co., Ltd. / 1994

日本建築史図集 / 日本建築学会 / 彰国社 / 1997

Carlo Scarpa Architect INTERVENING WITH HISTORY / Canadian centre for Architecture / 1999

伊勢神宮 日本の古社  / 三好和義ほか / 淡交社 / 2003

建築における「日本的なもの」/ 磯崎新/新潮社 / 2004

伊勢神宮:東アジアのアマテラス / 千田稔 / 中公新書 / 2005

17歳のための世界と日本の見方 / 松岡正剛 / 春秋社 / 2006

伊勢神宮 森と平和の神殿 / 川添登/ 筑摩書房 / 2007

連塾 方法日本 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ / 松岡正剛 / 春秋社 / 2008、2009、2011

伊勢神宮 魅惑の日本建築 / 井上章一 / 講談社 / 2009

伊勢神宮の謎 / 稲田知宏 / 学研 / 2013

日本の起源 / 東島誠 與那覇潤 / 太田出版 / 2013

丹下健三 伝統と創造 瀬戸内から世界へ 展示図録 / 美術出版社 / 2013

古事記 / 池澤夏樹 / 河出書房新社 / 2014

図解伊勢神宮 / 神宮司庁 編・著 / 小学館 / 2020