平和と自由と説明できない当たり前の線
2019年ももう終わろうとしていますが、最後に少し文章を書きます。
今年は何と言ってもラグビーワールドカップでした。
高校生の頃からの夢が叶いました。
一瞬一瞬を噛み締め、心から楽しみました。
若い頃は漠然と世界はどんどんと良いものになっていくと信じて疑いませんでした。
去年よりも今年、今年よりも来年と、着実に地球は平和に向かって進み、夢も希望も可能性も膨らむばかりだと思っていました。
でも実際に眼の前で展開した現実はそうではありませんでした。
僕が考える人としての倫理観に基づく良識や常識とは、あまりにもかけ離れたところで国や世界の大きな決断がなされ、正直、どうにも抗えない諦めの気持ちの方が強くなっていました。
しかしながら、ワールドカップのあの空間は、世界はまだちゃんと平和になることができるんだということをはっきりと表現していました。
そこには資本主義社会から抜け落ちてしまった人類の尊厳と自由が燦然と輝いていました。
人間の可能性がこれでもかというほど詰まっていました。
写真はアイルランド戦のあとに静岡駅で出会ったアイルランドサポーターたちとの一枚。(右から二人目が僕です)
「おめでとう。一緒に写真を撮ろう。」
と、向こうから声を掛けてくれました。
その時、これこそが平和であり自由なんだと思いました。
建築は始まりの年でした。
震災の直前に日本に戻ってきたので、大学を卒業してからイギリスで過ごした時間とちょうど同じくらいの時が経ちました。
この9年間、どちらかというともがいてばかりいましたが、今年は前進の感覚がはっきりとありました。
外部で建築の話をさせてもらう機会もいただけるようになりました。
僕はやはり建物そのものが好きなので、とにかく1年を通して設計を頑張りました。
力の入れ方を間違えてしまった部分も多く、大いに反省材料もありますが、それでも頑張りました。(小学生みたいな文ですが)
大真面目に、どうすれば2000年以上の歴史観を、僕が設計する眼の前の建築に宿すことができるかと、毎日考えて過ごしました。
設計では、目の前のお客さんに応えることはもちろんのこと、時代の要望に対する責務を果たした上でさらに、何千年という単位で人間と建築と社会が抱えてきた命題に向き合うことが必要不可欠だと僕は思っています。
そうすると結局、幸せとはなにか、家族とはなにか、家とはなにかという、本当にシンプルで普遍的な問いと正面から向き合うことになります。
とは言え、簡単に答えがでるわけもありません。
ただ、その意識を絶やさぬことで、少しだけですが自分なりの個性を持った線を図面に引くことができるようになりました。
それは言葉では説明できない当たり前の線です。
結局、大晦日の今日も僕は事務所で模型を作り、図面を書いています。
建築設計の仕事に携わりたいと思ったのもやっぱり高校1年生のときで、その後人生いろいろとありましたが、変わらずその夢の延長線上に今があることをとても嬉しく思っています。
まさにこのこと自体が夢のようです。
本年も大変お世話になりました。
みなさまどうぞよいお年をお迎えください。