「建築の日本展」について

  Posted on Aug 2, 2018 in 建築考察
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立体木格子 北川原温

「建築の日本展」が六本木の森美術館で開催されています。今まで日本の建築に特化した展覧会で、これほどまでに大規模なものは無かったのではないでしょうか。僕は4月のオープニングの際に1度、そして7月にも2度、展示に足を運びました。

この展覧会は、1. 可能性としての木造、2. 超越する美学、3. 安らかなる屋根、4. 建築としての工芸、5. 連なる空間、6. 開かれた折衷、7. 集まって生きる形、8. 発見された日本、9. 共生する自然、の合計9つのセクションによって全体が構成され、時系列ではない分類方法によって、古代から現代までの日本の建築を、テーマごとに横断しながら鑑賞できるようになっています。

僕自身は、古建築を頭と肌の両方で理解することができない限り、真に説得力を持った現代建築を設計することはできないと考えていますが、例えば、弥生時代の家形埴輪の隣にSANAAの荘銀タクト鶴岡の模型を見ることができるというのは、それだけで純粋にワクワクするものです。日本の建築に限らず、建築が好きな方であれば、展示空間にいるだけで幸せを感じることができるような展覧会だと思います。

一方、3度足を運ぶ中で、展示内容のみならず日本の建築の現状に対し、改めて強く感じることも多くありました。一般的なレビューや展示紹介は各種メディアにおいて十分なされているので、今回は、”世界の中の日本”、”影を見つめる勇気”、”前向きな議論”、そして、”日常との断絶”、という4つのポイントから、展示内容を参照しつつ、少し踏み込んだ形で日本の建築について考察してみたいと思います。

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POWER of Scale ライゾマティクス

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1/3スケール丹下健三自邸

まず、”世界の中の日本”についてです。

端的に言ってしまうと、今回の展示では、日本の建築と世界の建築との繋がりが、非常に限定的に取り扱われているように感じました。そのため日本の建築は、ほとんどガラパゴス的に独自発展してきたと、勘違いされてしまう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

天武天皇が「日本」という国号を定めた7世紀よりもはるか昔から、日本は継続して国外の文化、政治、宗教、芸術、技術から多大な影響を受けてきました。もちろん建築もその例外ではありませんでした。定量的な話はできませんが、その影響はセクション6の”開かれた折衷”として取り上げられている擬洋風建築のレベルをはるかに超える、日本の建築文化の根本的な成り立ちに関わるものです。

松岡正剛氏はその多くの著書の中で、”たらこスパゲッティを箸で食べる日本人”を例に挙げながら、「外来のコードを独自のモードに編集する、その方法こそが日本文化の一番特徴である。」とし、それを”方法の日本”という言葉で表現されていますが、まさに建築も同様のことが当てはまります。

古来より日本の建築は、外来のお手本を自国の状況に合わせてアレンジする過程において、その独自性を発揮してきました。6世紀に仏教とともに日本に伝わった漢字から万葉仮名が生まれ、そしてひらがなやカタカナへと発展した過程をイメージしていただくとわかりやすいかもしれません。言い換えると、日本は常に国外の情勢を意識しながら、自国の文化を育んできたということです。そのお手本は、江戸時代まではずっと中国であり、幕末に入ると西欧の列強諸国となりました。戦後をひとくくりにすることは難しいですが、依然としてアメリカやヨーロッパの影響がとても大きいことは間違いないでしょう。

そこで、次のような建築を隣同士に並べてみます。これらは単純に造形表現だけを取り上げたものですが、詳しい説明が無くとも日本の建築を見る視線が、内向きから外向きへと大きく広がるように思います。

・日本、中国、韓国の古建築です。明らかに僕らは皆家族です。歴史の系譜を辿れば、お父さんが中国建築、お兄さんが朝鮮半島の建築、そして末っ子が日本建築となります。

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左上)法隆寺金堂・五重塔 7世紀、右上)東大寺南大門 12世紀
左下)頤和園 中国 12世紀〜、右下)景福宮 韓国 14世紀

 ・パルテノン神殿、ルネサンスのオーダー、そしてアンドレア・パラディオの建築です。14世紀に入り、新しい時代の建築を求めイタリア・ルネサンス期の建築家たちが規範として参照したのが、キリスト教の台頭によって1,000年以上途絶えいた古代ギリシャ・ローマの建築でした。そして”オーダー”と呼ばれる柱の種類やプロポーションの規範の中に、建築思想を含めた人間文化の根源に触れる調和と絶対美を見出します。この考え方は、その後の世界中の建築に計り知れない影響を与えることになりました。日本には、明治の開国とともにこの思想が輸入されました。

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左上)パルテノン神殿 ギリシャ 紀元前5世紀
左下)オーダーの規範 イタリア ルネサンス時代 15~17世紀
右)アンドレア・パラディオ(1508-1580)の建築

 ・擬洋風建築とアメリカのコロニアル様式の建築です。西欧の植民地であったアメリカは、日本とはまた違う経緯で、ヨーロッパの建築様式を自国に取り入れた過程がありましたが、模倣とオリジナリティの折衷は日米に共通した要素です。また、他の植民地となった国々でも同様の折衷建築が生まれました。

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左上)第一国立銀行 東京都 1872年(図録より)、 右上)Longwood アメリカ 1862年 
左下)宮城県会議事堂 宮城県1881-1915年(図録より)、右下)Drayton Hall アメリカ 1742年

 ・藤井厚二とスコットランドの建築家C.R.マッキントッシュです。藤井の先生であった武田五一はマッキントッシュのデザインに日本の茶室と根底で通じるものを発見し、藤井もその影響を大きく受けました。一方、19世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧では日本の建築や浮世絵がひとつのブームとなり、マッキントッシュもその影響を受けていました。

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上段)聴竹居 藤井厚二 京都府 1928年
左下)マッキントッシュ自邸 英国スコットランド 1906年(1982年復元)
右下)旧東方村中村家住宅 1772年(2014年移築)

・ル・コルビュジエと前川國男と丹下健三の建築です。ル・コルビュジエほど近現代建築に大きな影響を残した建築家はいません。前川國男はコルビュジエの直接の弟子であり、丹下健三は前川事務所の出身です。二人はコルビュジエの建築を足がかりにして、戦後日本の建築界を牽引しました。

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左上)サヴォア邸 ル・コルビュジエ フランス 1931年
右上)ラ・トゥーレット修道院 ル・コルビュジエ フランス 1960年
左下)香川県庁舎 丹下健三 1958年、右下)東京文化会館 前川國男 1961年

・蟻鱒鳶ルとシュヴァルの理想宮です。郵便配達夫であったジョゼフ・フェルディナン・シュヴァルは33年をかけて自らの理想宮を建設しました。シュヴァルが取り憑かれたのは「石」という素材の加工とそこから生み出される造形でした。

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左)蟻鱒鳶ル 東京都 工事継続中(図録より)、右)シュヴァルの理想宮 フランス 1912年

・SANAAとミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)の建築です。ミースは内部空間の自由度を最大限活かすために限りなく均質で美しい空間を作り上げ、これをユニヴァーサル・スペースと呼びました。現代の美術館空間やオフィス空間の原型です。

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上段)Crown Hall ミース・ファン・デル・ローエ アメリカ 1952年
下段)ルーブル・ランス SANAA フランス 2012年(図録より)

もちろんたったひとつの展覧会で日本の建築の全てを理解することはできません。ただ、その成り立ちの大きな枠を捉えることは十分可能です。時代の前後関係や、直接的な影響の程度も重要ですが、まずは、日本の建築は常に世界の歴史の大きなうねりの一部として存在しているということ、そして、同じような建築現象は世界中で並行して起きているということを、細部にとらわれすぎずに、感覚的に掴むことがとても大切だと思います。

何よりも、世界の建築を抱きかかえるようにしながら日本の建築を位置づけることで、独自性や優位性の競い合いではなく、それぞれの共通項を尊重する共有意識が生まれるように思います。

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左)投入堂 鳥取県 平安時代(図録より)、右)懸空寺 中国 5世紀末

展示副題に〜その遺伝子がもたらすもの〜とありますが、このように日本の建築の遺伝子は、その多くを国外との交流に依ってきました。そして全く同様に、世界の国々もまた、外部文化の影響を存分に取り入れながら、独自の建築を発展させてきました。

明治維新後は日本も少しずつ海外へ影響を与える側となります。展示にもありましたが、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)が日本の浮世絵や古建築に興味を持ち、それをドローイングや建築デザインに還元していたことはとても有名です。

一方で、今度は先に挙げたC.R.マッキントッシュ(1868-1928)と藤井厚二(1888-1938)の例のように、日本に影響を受けた海外建築家の作品に、再び日本人の建築家が影響を受ける、といった循環現象も起こるようになります。(フランク・ロイド・ライト風の外観デザインの住宅は、現在もなお住宅メーカーの主要ラインアップとして、日本中に建設され続けています。)

そして現代はというと、瞬時に情報が飛び交い、世界を自由に行き来することができる時代です。世界中の建築デザインは、言葉にするまでもなく、その相互的な関係性を大前提として展開を続けています。

この状況を踏まえると、展示後半に日本の建築から強くインスピレーションを受けた建築として、RCRアルキテクタス、ジョン・ポーソン、デイビッド・アジャイなどの作品が展示してありましたが、これら海外の超一流建築家の作品の上位に日本の建築がある、というような印象を持たせるプレゼンテーションの仕方は、どこか腑に落ちないものがありました。

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Dirty House デイビッド・アジャイ イギリス 2002年(図録より)

少しだけ建築的な考察をしてみます。アジャイ氏のDirty House というプロジェクトで、茶室の4方展開図をそれぞれ少し角度を持たせて横に連ね、やや斜め上から眺めた図面が展示してありました。これは、茶室空間の内部立面を、時間軸を伴った一連の動的シークエンスを作る面の連なりとして捉え直してみることで、そこから浮かび上がるデザインの可能性を探っている、ということだと思います。

これに対し、江戸時代の茶人や棟梁らが茶室設計の際に用いたのは、内部立面を平面的にパタパタと広げた「起こし絵図」と呼ばれるものでした。そして花弁が閉じるかのように、空間をやわらかく包み込む要素が、4方の壁および天井でした。この茶室空間に関しては、展示にある妙喜庵待庵の写しを体験された方もいらっしゃると思います。

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上段)アジャイ氏作成の茶室展開図(図録より)、下段)小堀遠州の八窓席の茶室起し絵図

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小堀遠州の八窓席の茶室起し絵図内部

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妙喜庵待庵の写し

つまりアジャイ氏は、日本の伝統的な茶室空間の捉え方とは異なる独自の空間解釈を持って、新しい建築のデザインに臨んでいました。建築設計に携わる方はご承知の通り、着想はプロジェクト初期の一瞬のフェーズにすぎず、その後の建築を具現化する過程がプロジェクトを豊かさを左右し、また、建築家の腕の見せどころでもあります。

言うなれば、中国建築から着想を得た日本人が、日本独自の建築を発展させたのと同様の過程が、茶室から着想を得たアジャイ氏の建築にも存在していたはずです。それならば、なぜデザインの展開や、着地点のオリジナリティにもっと焦点が当たるような構成としないのでしょうか。

日本が素晴らしい建築文化を育んできたことは間違いありません。ただ、それが世界の他の国の建築よりも優れたものであるかというと、必ずしもそうではありません。もちろん劣っているわけでもありません。ただ「違う」というそれだけです。諸外国においても、それぞれの国がそれぞれの環境において、それぞれの文化背景と価値観をもって、独自の建築を育んできました。そこに優劣や上下の関係はありません。

日本人にとって日本の建築(特に古建築)が心に響くのは当然のことです。なぜならば、建築の方が先にあり、それを追いかけるようにして、現代の我々の美意識や価値観が形成されているからです。その同じ感覚を今度は少しだけ外向きに変えると、世界の国々の建築が皆それぞれ特別なのだとわかるはずです。そうすることで「建築」というジャンルそのものが、もっと面白く、もっと奥深く感じられるのではないでしょうか。

日本の外に世界があるのではなく、世界の中に日本があるのです。

 

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JR新宿駅 南口

次に、”影を見つめる勇気”について考えてみます。

今回の展示は、明らかに”ポストモダン建築”から目を背けているように思いました。日本の歴史上、「最も短期間に最も多くの建物が立ちあがった。」と言われるほどの建物が建設されたのがバブル経済の時代です。そして、その時代の建築を最も直接的に表現したのが、ポストモダン建築でした。ゼネコンの潤沢な金銭的サポートのもと、日本人建築家が世界中で自作の展覧会を開いていたのもこの時代です。

日本人は真面目で勤勉だとよく言われますが、一方で、とんでもなく軽薄で傲慢で倫理観に欠ける部分があります。極端な好景気の中、そのコインの表と裏が同時に表出したのがバブル文化でした。ジュリアナ東京の映像がテレビで流れるたびに目を覆いたくなる思いがしますが、その時代に次々と立ちあがった建築は、今もなお日本の街並みを形成する主要な要素です。

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M2 隈研吾 1991年

ポストモダン建築が持つエネルギーと野心は本物であったと思います。一方で、甚だしく建築的なモラルが欠落していたこともまた事実です。それはまさしく時代に呼応する建築スタイルでした。

当時のその風潮に対し、”M2”という最も突き抜けたポストモダン建築を設計することで、逆にその虚構性を痛烈に批判するという、思い切ったカウンターパンチを狙ったのが隈研吾でした。しかしながら、振り返れば、この思想こそがまさしくポストモダン的な考え方であったのかもしれません。(隈氏は現在、世界で最も活躍している日本人建築家のひとりで、進行中の新国立競技場の設計者です。)

建築に限ったことではありませんが、世の中のほとんどの事象は白でも黒でもないグレーゾーンに分類されます。あの時代から学ぶことは、いまだに多くあるのではないでしょうか。

少し話は逸れますが、数年前、とある経済学者が当時の有効求人倍率について「非常に高い水準にありますが、バブルの頃に比べればまだまだですね。」というコメントを残していて、強い違和感を覚えたことがありました。”のど元過ぎれば熱さを忘れる”や”臭い物に蓋をする”ということわざのように、日本人には、物事の良い側面を過剰に純化して取り上げる一方で、都合の悪いことはひとまず無かったことにしてやり過ごそうとする、少しズルい気質があると思います。

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多摩ニュータウン 永山 “お山の公園”(黄砂の吹き荒れる日でした。)

僕は1978年生まれの多摩ニュータウン育ちです。車道と歩道が完全に分離され、緑と公園に囲まれた環境で、たくさんの同級生とともに、のびのびと街中を走り回る幼少期を過ごしました。当時のニュータウンは活気溢れる街であり、紛れもない僕の少年時代の原風景となっています。

セクション7は”集まって生きる形”がテーマです。ただ、ここには日本住宅公団のニュータウン計画は含まれていませんでした。これは、「ニュータウンは失敗であった。」と一般的に捉えられているからでしょうか。

しかし、これまでの日本の大規模開発において、ニュータウン計画ほど真正面から”集まって住む”ということに向き合い実行に移された計画も無いように思います。都市計画的にも、ペリーの「近隣住区論」(1924年)や、コルビュジエのサン・ディエ計画(1945年)など、世界の郊外開発計画を強く意識したものでした。個々の建築においては、タウンハウスやメゾネットなど、それまでの日本には例の無かった集合住宅の形式も試されています。

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左)クラレンス・ペリー 近隣住区論 1924年
右)サン・ディエの都市計画 ル・コルビュジエ 1945年

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多摩ニュータウン 諏訪・永山地区 (googlemapより、右端の真ん中がお山の公園)

また公営住宅の「51-C型」と呼ばれる2DKの間取りは、食寝分離、ステンレスの流し台、ダイニング・キッチンなどが導入され、現在まで続く戦後日本の集合住宅の原型となりました。特にダイニング・キッチンの採用は、家庭内のみならず社会での女性の立ち位置の変化を象徴するものでした。また「L・D・K」などの記号を用いた間取りの表示方法も、当時の住宅公団が考案したものです。団地住まいはまさに人々の憧れでした。

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左)タウンハウス住棟配置 1981年、右)51-C型間取り 1951年考案

2年ほど前、文化庁国立近現代建築資料館にて「建築と社会を結ぶ 大高正人の方法」という展覧会を見学しました。大高氏は多摩ニュータウンのマスタープランを作成されましたが、その計画は多摩丘陵の地形を最大限に活かしつつ、かつ、当時の最先端の郊外開発の考え方を取り入れたものとなっていました。計画への情熱が並々ならぬものであったことは、当時の図面や資料からヒシヒシと伝わってきました。

結果的に実現した開発は、初期の大高氏の計画よりも多くの土地造成も含んだものとなりましたが、それでもその根本にある思想はしっかりと引き継がれているように思います。これはセクション9のテーマ”共生する自然”にも通じる内容ではないでしょうか。

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左)展示カタログ、右)近隣住区論を参照した施設配置

確かに現在のニュータウンは難しい局面に立たされています。しかし建築的な視点からも計画は完全に失敗だったのでしょうか。絶好の学習サンプルをなんとなく置き去りにしてしまうのは、あまりにももったいないように思います。

 

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東京国立博物館本館

”前向きな議論”について考えます。

歴史を振り返ると、日本には社会的議論を巻き起こした建築が多くありました。古くは渡辺仁の東京帝室博物館(現 東京国立博物館本館、1937年)、戦後は前川國男の東京海上ビルディング(1974年)、先程の隈研吾のM2(1991年)、丹下健三の新東京都庁舎(1991年)、原広司の京都駅ビル(1997年)、そして最近ではザハ・ハディドの新国立競技場案(2012年)などです。

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左)東京海上ビルディング、右)東京都庁舎

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京都駅ビル

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新国立競技場 ザハ・ハディド案

僕は原氏の京都駅ビルは歴史に残る名建築だと思っていますが、それは時間の経過とともに自分なりの判断が見えてきた部分も大きいように感じます。一方で、僕と反対の意見を持つ方々も多くいらっしゃるでしょう。ただ、この受け止め方の多様性こそが、建築をとりまくべき健全な姿です。意見や思想の統一はやはり洗脳でしかありません。

新国立競技場を除けば、各プロジェクトとも既に客観的に状況を分析できる状態となりました。そこで改めてこれらの建築を議論の場にあげることは、今後の日本の社会形成にとって大切な意味を持つはずです。

本来、建築の議論に終わりはありません。例えば、まだ30代であったリチャード・ロジャースとレンゾ・ピアノが、パリの伝統的な街並みの中に設計したポンピドゥーセンター(1977年)は、世界で最も成功している現代芸術センターであり、当時の「建築」という概念をまるごと書き換えてしまうほど、そのデザインは大きなインパクトを残しました。しかしながら、誰もが時代の象徴性や国際的な評価を認める一方で、建築デザインの是非については、永遠にまとまった見解に至ることは無いでしょう。ただ僕は、結論を目指すことよりも、そこに建設的な議論と継続的な社会の関心が存在することの方が、ずっと大切であるように思います。

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ポンピドゥー・センター外観

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ポンピドゥー・センター周辺鳥瞰図(googlemap より)

もうひとつ例を挙げます。ル・コルビュジエ(1887-1965)の建築や都市計画については、コルビジュエの死後50年以上経った現在も、延々と議論が繰り返され、数限りない本が出版され続けています。いまだにメディアに取り上げられることが多く、各地で定期的に展覧会も開催されています。しかし、なぜこれほどまでにル・コルビュジエは特別なのでしょうか。それはコルビュジエが生涯にわたり、人間と社会と建築と芸術の接点を探りながら、提案を続けたからだと思います。そこにあったのは「生きるとは。家族とは。生活とは。幸せとは。」といった、人類の根源的な”問い”に対する継続的な挑戦でした。だからこそ、コルビュジエの建築はその後の未来を見据えたベンチマークとなったのだと僕は考えています。

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左)事務所のコルビュジエ関連の書籍、右)建築倉庫ミュージアムにて

先に挙げた日本の建築は、それぞれ時代の命題を抱えながら設計されました。政治的になる必要は全くありませんが、今回のような大規模な展覧会は、建築関係者だけでなく広く一般の方々にも、建築にまつわる前向きな議論を促す絶好のチャンスではないかと思います。

 

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根津の街並み

最後に”日常との断絶”についてまとめます。

「日本の建築はすごいなあ、美しいなあ。」と満足感と高揚感を覚えて展示を見終えると、再び日常の中へと放り出されます。一体このギャップをどう受け止めればよいのでしょうか。今回展示されている建築が、日本文化の正統な遺伝子を受け継いできた建築であるとするならば、身の回りに立つ圧倒的大多数の建築を、僕たちはどう理解するべきなのでしょうか。

昨今流行りのタワーマンションは展示のどこに分類されますか。建売住宅はどうですか。超高層ビルや大型ショッピングセンターはどう思いますか。日本の建築家が設計すれば、それは日本の建築ですか。もし和食でないのであれば、イタリアンですか、それともフレンチですか、中華ですか。畳や障子があれば日本の建築ですか。それとも日本に建った時点で全て日本の建築となるのでしょうか。僕たちは一体どこの国のどんな建築に囲まれて日々の生活を送っているのでしょうか。

この当たり前の問いを誰も気に留めなくなってしまいました。

 

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先日の勉強会の参考図書です。

「建築の日本」という表現に、僕は大きな可能性を感じています。この主語と述語の反転の中に、ある特定のスタイルを目指す収束型の意識ではなく、建築という大きなジャンルの多様性の中に、それぞれの日本を探していこうとする意思を感じるからです。また同時に、僕は個々のローカルを突き詰めることこそが、最もグローバルに響く建築を作る方法だと考えるからです。(たまたまですが1年半程前から主催している建築の勉強会で「これからは”日本の建築”ではなく”建築の日本”を模索していくべきではないか。」という話を度々してきました。)

残念ながら、本来、最も密接に関係しているべき「建築の日本」と僕たちの「建築の日常」とには明確な断絶があります。自分自身、今回の展覧会の内容と、日常の建築体験とを連続性を持って捉えることはとても難しく感じます。まるで一本のよくできた映画を鑑賞したような感覚です。

この根津の街並みを見て、ここに住みたいと思う人がどれ程いるのでしょうか。

これは「根津駅徒歩3分、コンビニ1分、鉄筋コンクリート造、築18年、11階建ての4階、2LDK、南向き、オートロック付き、家賃18.5万円、管理費込み。」の価値観が支配する世界が作り上げた景色です。

街を見渡せば、こちらが現代の日本の建築の主流であることは疑う余地もありません。それでは、繰り返しますが、僕たちはこの「建築の日本展」をどのように受け止めるべきなのでしょうか。

展覧会図録の前田尚武氏の「建築展の可能性」と題した文章に、以下の一節があります。

「建築史上の名作といわれる建築物であっても次々と壊されてしまうのは、建築物が創られる時点から、作品性と同時に、解体するという選択も含めて、公共性や社会性から逃れられない宿命を背負っているからである。」

まさにこれこそが「建築の日本」と「建築の日常」との断絶です。

もし本当の意味で「建築」が、その土地の、その国の、その文化の一部として社会に根ざしているのであれば、名建築は公共性や社会性から逃れられないからこそ、それを安易に壊すことを、その社会自体が決して許さないはずです。

このまま日本の建築が、その文化性と一般社会との接点をないがしろにし続けると、100年後の日本には、寺社仏閣に代表される古建築か、もしくは築30年以内の若い建築の、その両極端の建築しか存在しなくなってしまうように思います。

はたしてそこに建築の成熟はあるのでしょうか。

「建築の日本展」、冒頭にも書きましたが、本当に素晴らしい展覧会です。貴重な資料も多く、何度訪れても飽きません。一方で、日本の建築界に対する切実な危機感を感じることもまた事実です。

「あれもいいよね。」「これもすごいよね。」ではない建築の展覧会がそろそろ必要なのではないでしょうか。

 

 

 

 


参考図書

建築の日本展 その遺伝子のもたらすもの 図録/森美術館・Echelle-1/2018

建築と社会を結ぶ 大高正人の方法/文化庁国立近現代建築資料館/2016

聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築/松隈章/コロナ・ブックス/2015

MIES VAN DER ROHE/Claire Zimmerman/TASCHEN/2015

HADID Zaha Hadid Complete Works 1979-2013/Philip Jodidio/TASCHEN/2013

連塾 方法日本 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ/松岡正剛/春秋社/2008、2009、2011

17歳のための世界と日本の見方/松岡正剛/春秋社/2006

負ける建築/隈研吾/岩波書店/2004

MADORI「間取り」日本人とすまい/リビングデザインセンター/2001

郵便配達夫シュヴァルの理想宮/岡谷公二/作品社/1992

PALLADIO/Wundram・Pape・Marton/TASCHEN/1992

Chinese Architecture/Laurence G Liu/Academy Editions/1989

アメリカン・ハウス その風土と伝統/清家清・和田久士/講談社/1987

CHARLES RENNIE MACKINTOSH/鈴木博之/国際芸術文化振興会/1985

History of World Architecture – Oriental Architecture 2/Mario Bussagli/ElectaRizzoli/1981

Le Corbusier 1910-65/Birkhauser/1967

茶室おこし絵図集/堀口捨己/墨水書房/1963

The Classical Language of Architecture/John Summerson/Thames & Hudson/1963