デザインの自動生成
1928年築の村上精華堂は根津のお化粧屋さんでした。もともとは不忍通り沿いの、僕の事務所から歩いて30秒ほどの場所に立っていたそうですが、現在は小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築されています。
1928年というと、明治維新、日露戦争、大正デモクラシーを経て、ちょうど大正から昭和に時代が移った頃です。東京には辰野金吾による日本銀行本店や、片山東熊による東宮御所(迎賓館赤坂離宮)など、本格的に西欧の古典建築に習った建物が既に多く建てられていました。これらの格式高い西欧風の建築は、欧米列強諸国に追いつくための国策の一貫としての意味合いを強く持っていました。
一方で、一般大衆にとっての西欧建築は、看板建築に代表されるように、欧米への強い憧れを伴った流行を直接的にファッショナブルに表現するものでした。
このような時代のもと、村上精華堂はおそらく町の大工さんが見よう見まねで外観を作った建物だと思います。内部は完全に和風でした。頭に渦巻状の模様を乗せた柱が印象的ですが、これはギリシャ・ローマ建築に用いられたイオニア式柱を真似たものです。
日本のある時代を象徴する建築として、これをかわいらしい折衷建築と受け止めるか、拙い模倣建築と捉えるかはひとそれぞれですが、僕自身は、どこか抗い難い愛着を感じてしまうと同時に、こればかりでは建築の未来は続かなかったともやはり思います。
15世紀のルネサンス以降、西欧社会では「オーダー」と呼ばれる柱形状の表現の中に、建築思想を含めた人間文化の根源に触れる絶対美を見ていました。
しかしながら村上精華堂のファサードを見る限り、大工さんや建主さんはこの大切な事実を知らなかったのではないかと思います。そのため、建築デザインを表層的な形態記号の組み合わせとしてしか捉えることができませんでした。結果、やはり日本の文化と西欧の文化を深く重ね合わせるまでには至っていません。
(※「オーダー」とは西欧の柱の形状の規範です。少し前にインスタグラムに文章を書きました。是非読んでみてください。)
それでは90年の時が経ち、日本にはより文化的に成熟した建築が建てられるようになったのでしょうか。
残念ながらそうではないように感じます。実際にはインターネットを介して瞬間的に画像情報が拡散する時代です。もはやどこにオリジナルがあるのかもわからない消費対象としての建築デザインの、コピーのそのまたコピーがものすごい勢いで生産され続けています。
つまりグーグル画像検索のフィルタリング機能が、その消費される建築デザインの基本形を自動生成する時代となりました。
その媒体はもちろん生身の人間です。