ジャスティスよりもフェアネスの建築を
夏の終わりに短く書きます。
「存分に走れ」はスポーツライターの藤島大さんの文章です。
戦争の特集番組が増える頃、僕は必ず読むようにしています。
今、自分たちが生きている日本社会について様々なことを考えさせられる内容です。
大さんは早稲田大学ラグビー部の出身。
僕の高校(都立国立高校)ラグビー部のコーチでした。
3年間毎日グラウンドでラグビーを教わりました。
「戦争をしないためにラグビーをするんだよ」
これは戦後の名将 大西鐵之助の言葉です。(大さんが大西鐵之助について書いた「知と熱」という素晴らしい本があります。)
詳しくは大西の「闘争の倫理」という一冊にありますが、この言葉の意味するところは、精神的肉体的極限においても決して越えてはならない一線を身体で会得するということです。
試合中、選手が入り乱れる密集で、スパイクを踏み込もうとするその先に、倒れた相手選手の顔があったらどうするのか。
そこに頭で考え判断している時間的余裕はありません。
「存分に走れ」とは、今の僕には「存分に設計しろ」と言い換えられます。
もう10年以上も前のことです。
まだロンドンにいた頃に、大さんにある言葉を贈ってもらいました。
「ジャスティスよりもフェアネスの建築を」
結局ラグビー無くして僕の建築は考えられないのです。
現在、雑誌などに多く取り上げられている日本の建築家が作る建築を見ると、実はこのフェアネスが大きく欠けていることが多いように思います。
それはアウトプットとしての建築だけではなく、プロジェクトの枠組みからの話です。
例えば、無給のオープンデスク問題。
「学生も納得して来ているのだからいいじゃないか」
「素晴らしい体験になるのであれば双方利益があるじゃないか」
本当にそうでしょうか。
どう正論を組み立てたとしても、そこに若い情熱を労働力として搾取する構図があることは、大人の誰しもがわかっているはずです。
そしてその意識は隠しようもなく、そのまま建築デザインとして表現されていることに早く気付くべきです。
これは日本の現代建築が世界の中でゆっくりと、でも着実にその説得力を失っているひとつの大きな要因ではないでしょうか。
残念ながらこのフェアネスの欠落は日本の政治・外交も全く同じだと思います。
いよいよラグビーワールドカップが日本で開幕します。
ドキドキしています。
目一杯応援しますよ。