外観の表情
大阪にある綿業会館は渡辺節の設計で1931年に竣工しました。
渡辺さんは1920年~60年頃にかけて大阪を拠点に活躍された建築家で、西欧の古典主義を主とした様式建築を多く手がけました。
前回の投稿で登場した村野藤吾は、この渡辺事務所で大学卒業後の10年間を過ごしましたが、その村野さんが綿業会館の設計を担当しました。
そしてこの建物の完成をもって38歳で独立し、自身の建築事務所を構えることになります。
写真の左手奥が綿業会館の本館、右手前が新館です。(新館も渡辺事務所の設計で1962年に竣工しました。)
その接合部分を見上げています。
村野さんは後年「様式建築は形ではなくて、線や面、影やマティリアルの組み合わせのその微妙さにある。」と話されていますが、そのルーツはやはり渡辺事務所での経験にあったのだと思います。
何気なく通り過ぎてしまいそうですが、ボリュームの陰影がとても美しい豊かな造形です。
(綿業会館本館は2003年に重要文化財登録されました。)
こちらは村野さんが1963年に設計した日本生命日比谷ビル(日生劇場)です。
村野藤吾は外観デザインにおいて一切手を抜かない建築家でした。
建物の裏面も正面と同じ緊張感でいつも設計されています。
これは簡単なようでいてとても難しいことです。
よかったら街にある建物の裏側を覗いてみてください。
きっと雨樋、エアコンの室外機、換気扇カバーなど表に見せたくないもので溢れかえっています。
窓の配置もどこか雑多な様子を見せていることが多くあり、壁の仕上材も安価なものとなっている場合がほとんどです。
新潟県糸魚川市にある谷村美術館は村野藤吾の最晩年の作品です。
1983年の竣工時、村野さんは92歳でした。
まるでゾウさんのような建築ですが、この独特な造形は、外観の四方に対して同等の責任を持つという姿勢を生涯貫いた村野さんだからこそ生まれたようにも思います。
都市部の敷地は通常余裕がなく条件が厳しいため、法規で定められた上限に近い床面積を確保する設計となることが多くあります。
言うなれば風船を目一杯膨らませたような建築です。
綿業会館のような造形的外観を作ることが難しい建築であるとも言い換えられます。
これは東京駅とその背後に立つオフィスビルの外観の作り方の違いを見るとよく理解できます。
では、どのように建築に表情を持たせるか。
これは建物の大きさに関わらず、都市建築における共通の課題です。
外観の表情は立体造形だけでなく、仕上げ材の選び方や窓の配置によって作ることもできます。
MS邸(2015年)ではシルバーのガルバリウム鋼板の外壁が柔らかく空の色を反射し、天気や季節、一日の時間帯によって刻々とその質感を変化させます。
そして夕方以降に窓から溢れる室内の明かりは、街並みの一部としてその積極的な役割り担っています。
面の構成としてはフラットな外観ですが、ここでもやはり光と影の奥行きを鍵にデザインを進めました。
京都の三十三間堂(鎌倉時代)と桂離宮の笑意軒(江戸時代前期)です。
伝統的な日本建築では屋根の意匠が建物の印象を大きく左右します。
実際に、立面を構成する面積のほぼ半分が屋根です。
深く出た庇は、夏の強い日差しを遮り室内環境を整え、また、風雨から木造の建物を守ります。
しかしそれだけでなく、屋根の存在意義は単純な機能以上のものとして発展しました。
特に室町時代以降、建物の間取りは一気に多様化が進みましたが、それに合わせて屋根の形状や作り方も大きく変化しました。
その際、屋根は建物の格を表す象徴的な要素として、日本人の美意識を携えながら意匠展開したのです。
江戸東京たてもの園に移築されている三井八郎右衛門邸(1952年)です。
複雑でありながら上品で整った、美しい立体造形だと思います。
このような素晴らしい屋根は、現在なかなか見ることができなくなりました。
最後に。
傾斜屋根の無い箱型の建築を建てられるようになったのは、鉄筋コンクリート造と屋根防水の技術が発展した近代以降です。(これについては改めて書きますね。)
そしてこの技術革新により外観の作り方も一変しました。
前川國男設計の埼玉県立歴史と民俗の博物館(1971 年)です。
これもまた美しい佇まいの建築だと思います。
現在は経済的そして商業的な観点のみに焦点を当てて作られる建築が圧倒的大多数です。
後世に繋げる日本の建築を考えると、隙間からこぼれ落ちている文化があまりに多いように感じます。